翌朝未明、葉月はまるで何事もなかったかのように、春日局の前に出仕した。
「申しわけありませぬ。あの彩芽なる甲賀者は、私が目をはなした隙に、舌を噛んで自害いたしました。黒幕の名を聞き出すこともできず、まことに面目次第もありませぬ」
と葉月は平伏して謝罪した。
「よい、よい、死んでしまったものは詮無いこと。他に何か変わったことは?」
「ございませぬ」
「ご苦労であった。下がってよいぞ」
一礼すると、葉月は春日局の前を辞去しようとした。その時、春日局がふと呼び止めた。
「そなた、首の傷はいかがした?」
「この傷でございますか? 例の甲賀者に、激しく抵抗されたためできたものであります」
春日局の皺深い顔の奥にある両の眼が、かすかに光った。
いま一度挨拶した後、葉月は春日局の前を辞去する。この後、別室でしばし休息して茶などを飲み、御広敷にある伊賀者の詰所に戻るのが日課だった。
しばし疲れを癒していると、障子越しに春日局と侍女の会話が聞こえてくる。
「何も春日様、このような時に英勝寺になど参らずとも」
「いや昨日、夢にお梶殿が現れたのじゃ。どうしても、行かねばならぬような気がする」
「されど、お忍びでとは危のうございます。それ相応に、警護の者を付けてはいかがかと……」
「なあに案ずることはない。こう見えてもわらわは、昔屋敷に賊が入った時などは、この手で返り討ちにしてやったわい。この年でも己の身は、己で守れる自身がある。明朝、鎌倉に行くぞ」
ちなみにお梶の方というのは、あの徳川家康の数多い側室の一人で、家康最後の娘である市姫を産んでいる。
聡明な女性だったといわれる。ある時、家康と家臣たちが、食べ物の中で最もうまい物とまずい物を議論したことがあった。家臣たちが様々な食べ物の名をあげる中、家康がお梶はどう思うかとたずねると、お梶は「塩」と答えたという。
それではもっともまずい物はとたずねると、それも塩と答えた。家臣たちはこの答えを聞いて、お梶が男であったら一国一城の主も夢ではなかったであろうと、惜しんだといわれる。
先年八月に急逝したが、春日局とは生前ひじょうに親しい仲だった。