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【第三章】女帝の最期(一)

 筆者は、この回を書くにあたって、久方ぶりに春日局の菩提寺を訪ねてみることにした。

 現在のJR上野駅から約五分ほどで、上野松坂屋に到着する。ここは遠く後の世になるが、上野戦争の際に新政府側の本営が置かれた場所でもある。その背後に、春日通りなるものが走っている。春日通りをまっすぐ四分ほど行くと、やがて春日町という場所に出る。そして、春日局の菩提寺である麟祥院へと至るわけである。

 この周辺一帯は東京大学からも近い。幸田露伴、石川啄木等名のある文人、文化人も多数輩出している。

 ちなみに麟祥院から、さらに春日通りを九分ほどで、お万の方の菩提寺である無量院へと至る。さらにそこから十五分ほど直進して、今度は五代将軍綱吉が桂昌院のために建立した護国寺に到達するわけである。

 今さかのぼること百十年前の大正二年(一九一三)、自転車で首から写真機をぶら下げ、麟祥院を訪ねた一人の老人がいた。老人は、この春日町周辺で生まれた。そして、そう遠くない将来、この地で生涯を閉じることとなっていた……。


 寛永二十年(一六四三)九月、春日局はついに病の床についた。

 春日局が重病におちいってから、お万は毎日のように仏前で、春日局の病気快癒を祈った。

 ところがある夜のことである。お万は例の自らに宿る蛇の精霊の夢を見た。両者は今までにも幾度が夢で遭遇し、心通じるようになっていた。

「万よ今が機会じゃ、私が見たところ、あの春日局の命は後十年は続く。なれど私が毒を渡すゆえ、そなたがそれを白湯に混ぜて春日に飲ませるのじゃ。さすれば春日は、その日のうちに息を引き取ることとなる」

 と蛇の精霊は、万に春日局殺害をきりだした。

「せっかくではあるが、私は今、春日様の命を奪おうとは思わない」

「何を申す、そなたから自由を奪った張本人ではないか」

「確かにその通りだが、今になってそのようなことをいっても詮ないこと。私もあの方からは多くのことを教わったし、他にもいろいろと恩義もある」

 すると蛇の精霊は笑いだした。

「こなた何もわかってはおらぬ。何故そなた未だに子ができぬと思う。そなたが石女だからではない。あの春日が、そなたの食事に堕胎薬を混ぜておるからなのじゃ」

「馬鹿な! でたらめを申すな!」

 さすがの万も顔色を変えた。

「私が決して嘘をいわんこと、そなたもわかっておろう。私はそなたの知らぬことも全てお見通しなのじゃ。春日は将軍家にそなたの実家六條家の血がまざるの嫌っておるのよ」

 それだけいうと蛇の精霊は姿を消した。そして目を覚ました万の手には、毒薬が握られていた。

 その時、万ははじめて怒りにふるえた。

「もう許せん! もう我慢ならぬ……。よくも私の一生を、ここまで踏みにじってくれたのう! 殺してやる!」


 翌日、機会は訪れた。お万は毒薬を手にして、見舞いと称して春日局の部屋に赴く。

「お万か? そなたとも、もしやしたらこれが最後かのう」

 さしもの女傑も声に力がなかった。

「もそっと近くに寄れ。そなたにはずいぶんと苦労をかけた。城にとどめ、上様に仕えるよう仕向けたのは、他ならぬこの私じゃ。そなたには感謝と、そして詫びをいわねばなるまいて」

「それだけでございますか?」

 と万はかすかに険しい表情をうかべた。そして毒の入った白湯を、春日局にさしだそうとする。

 その時だった。お万の視界が春日の布団の近くに落ちていた小袋を、目ざとくとらえた。それは薬袋だった。さらにお万は、春日の布団の下から大量の薬袋を発見した。

「これは医師が煎じたものでございましょう。何故、薬を飲まないのでございますか?」

 かって春日局は、将軍家光が疱瘡で命を落としかけた際、自ら神仏に誓ったことがあるという。家光の命と引きかえに、自らは生涯薬断ちをするというものだった。

「果たして、我が祈りが天に通じたのか上様におかれては、見事にご快癒なされた。神仏と私との約束じゃ。わらわは薬を飲むわけにはゆかぬ」

「さりとて、かようなこと上様が望むとお考えか?」

 と万は、春日局の執念に驚きながらいった。

「上様のことだけではない。私は天下泰平の世のため、そして非力なおなごが決して苦しまぬ世をつくるため、今日まで懸命に働いてきたつもりじゃ。なれどそのために、かえって多くの者を苦しめ、時には死に至らしめた。その者たちのためにも、わらわだけが薬を飲むわけにはいかぬのじゃ」

 それはもはや、一種の妄執の鬼だった。

「のどが渇いた。白湯を……」

 万は椀をさしだすも、春日局の目の前で意図的に床に落とした。椀は粉々にくだけた。

「失礼をいたしました。すぐに別のを持ってこさせます。なれど神仏に祈ったとて……祈ったところで人は救われぬと、そう仰せになられたのは、春日様ではございませぬか」

「そうであったのう。なれど時として人は祈らずにはいられぬものじゃ。今はただ、徳川の世の末永い安寧を祈るのみじゃ」

 といって、春日局は手をあわせた。

「万殿、この婆の最後の望みを聞いてくれるか? 我亡き後の大奥総取締の座は、そなたをおいて他に適任はおらん」

「私には、そのような重い役はつとまりませぬ」

「謙遜しなくてもいい。女を束ねるは、男を束ねるよりはるかに骨の折れることじゃ。それができるのは、そなたをおいて他にはない」

 万は心に思うところはあったが、今はひきうける以外道ないと思った。

「大奥とそして、なによりも上様のこと、こなたに後のことは頼みましたぞ」

 そこまでいうと春日局は、力尽きたように眠りにおちた。

 万は、とうとう春日局を殺害することはできなかった。その夜、再び蛇の精霊の夢を見た。

「何故、春日の命を奪わなんだ!」

「こなたは、春日様の命は後十年続くと言ったのう。なれど、私が手をくださずともじきに死ぬわいな。所詮、私ではあの方には敵わん」

 と万は疲れたように言った。




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