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【第三章】女帝の最期(二)

 翌日、今度は将軍家光が春日局のもとをたずねた。

「福、話しは万より聞いた。後生だから薬を飲んでくれ」

 しかし、春日局はかすかに苦笑いを浮かべるだけだった。

「福よ、わしのことを一番よく知っておるのは、誰でもないそなたじゃ。わしから将軍という肩書を取れば、後はなにも残らぬ。万も玉も楽も、そのようなわしを愛してはくれぬ。それでもわしを愛してくれるのは、福そなただけじゃ」

 と将軍は必死の懇願をした。

「まことにもったいのうお言葉、なれど私はもうお側におることかないませぬ。私の体は、私が一番よう知っております。例え薬を飲んだとて、私はもはや病には勝てませぬ。私の生涯の望みは、力なきおなごでも、安堵して生きていける世をつくること。どうか、どうか上様、かような世がおとずれるようお力を……」

 と精一杯声を出していう。

「今一つ申しあげてもようございますか」

「何なりと申せ」

「昨日、万に申そうと思って、ついに申せなかったことにございます。玉のことにございます。あの女は油断なりませぬ。我亡き後、いつの日にか大奥に災いをもたらす時がくるやもしれませぬ。上様、決してあの女に心を許してはなりませぬぞ」

「あいわかった。心に留めておく」

「これでもう安心にございます。しばし休ませてくだされい」

 といって春日局は目を閉じた。

  家光も去り、春日局は再び深い眠りにおちいった。そして不思議な夢を見た。


 ……首から写真機をぶら下げた老人は、麟祥院の方角に目をやりながらしばし物思いにふけっていた。

「旦那様、かようなところにおいででございましたか? 探しましたぞ。このようなところで何をしておいでです」

 と使用人らしい男が声をかけた。

「いや何、春日様は今の世にどのような思いを抱いておいでか、ふと考えたのよ」

 とこの冷徹な男にしてみれば、妙に感傷的なことをいいだした。

「わしが将軍職を、朝廷に返上してから早半世紀が過ぎた。栄華盛衰は世ならい。今にして思えば、わしがいかように手をくだそうと、徳川は滅ぶべくして滅んだのだ。鉄道、自動車、戦場には戦車。他にも数えきれないほどの文明の利器、かような時代まで、徳川は生きながらえることはできなかったのだ」

 と老人は年齢のせいもあってか、憂いに満ちた表情を浮かべた。

「まあ、あっしらが若い頃は、鎖国政策は日本国の神代以来連綿と続いてきたものとばかり思っておりました。春日様の時代からと初めて知った時は、本当に仰天いたしました」

 と使用人の男は苦笑しながらいった。

「余が知るかぎり、春日様がお亡くなりになったちょうどその年、中華では明が滅んで清がおこった。その清も昨年滅んで中華民国となった。今一つ幕府と関係をたもっていたオランダは、春日様の時代は西欧一の強国だった。強国だったが故に、他の西欧の国々との競争に勝利して、我が国との交易の利を独占できたのじゃ。キリスト教だけの問題ではない。

 なれど長い歳月の間に、オランダもまた弱体化した。やがてはエゲレス(イギリス)が覇権国となった。我が国は、そのような世界情勢の変転に、まったくついてゆくことができなかった。

 日露戦争とて、我が国の力だけで勝てたのではない。日英同盟があったればこそじゃ。だが日英同盟は、もしかしたら百年遅かったやもしれぬ。

 徳川の世もはるか遠くになった今となり、時折思うのじゃ。まこと鎖国は我が国の歩むべき道だったのかとな。この国の民すべてを、まるで大奥の女たちのように、籠の鳥にしてしまうのが正しきことだったのか否か……」

 老人はいっそう悲し気な表情をうかべた。


 ……春日局は、ようやく夢からさめた。すでに夢の内容のほとんどは忘れていた。そして間もなく容態が急変した。

 将軍家光は、どうやって春日局に薬を飲ませるか思案していた。しかし危篤に陥ったとの報に接し、すぐに枕元に急行する。

「福、しっかりせい!」

 春日局は薄目を開いた。

「上様……食が細うございますなあ。かようなことでは、福は行く末気がかりにございまする」

 これが最後の言葉となった。春日局、本名福享年六十四歳。女傑といえばこれほどの女傑も珍しく、悪女といえば日本史上類まれな悪女であったろう。その運命は本能寺の変、関ヶ原の合戦と日本国の数百年後までも左右する重大事により、つねに変転した。

 彼女の存在なくば、家光のような欠陥人間が将軍として君臨できたか、それさえも怪しい。また家光を取り巻く幕閣の面々も多くが、春日局に幼少の頃より世話になった者ばかりだった。事実上、幕政を操る影の将軍であったといっても過言ではない。日本国のその後さえも、大きく左右したといっても言い過ぎではないかもしれない。春日局の死と共に、大奥にも新たな風が吹こうとしていたのである。


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