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【第三章】女王蜂(一)

 春日局が世を去り、将軍は一月ほど喪に服した後、万を夜の相手に指名した。

「まことにそなたには詫びを入れねばなるまい。福の申すことには逆らえなんだ……」

 と将軍は堕胎薬の件を万に謝罪した。

春日局が世を去ってほどなく、万はこの件を将軍に執拗に問いつめた。言いわけできなくなった将軍は、事実を認め万に詫びたが、万は憤然として将軍の前を立ち去ってしまった。

「なれどのう、もう福はおらぬ。これよりは誰にもはばかることなく、我等の子をもうけることができるぞ」

「上様、私はそろそろお褥を辞退いたしとうございます」

 と万は驚くべきことをいった。

「何故じゃ? それほどまでに余を許せぬか? 余を嫌いになったのか」

「いいえそうではございませぬ。上様、本音を申しますと、私は子をもうけることが怖いのです」

「怖い?」

「上様にはすでに二人の男子がおりまする。そのうえ私までも男子をもうけたらいかがあいなるでしょう。将来世継ぎの座をめぐって、争う愚だけは見たくはございません」

「なんじゃかようなことを……わしは側室の中でも、特にそなたに目をかけているがわからぬか? もしどうしてもと望むなら、わしの一声で、そなたの子を世継ぎにしてもよいぞ」

 と家光は破格の条件を提示した。

「そのえこひいきこそが、国を乱す元であるとおわかりになりませぬか? 現に上様は、弟君を亡き者にしているではありませぬか! 私は春日様より天下安寧の世をつくるため、そなた自身が力を持つべきだと説得され、この大奥にとどまる道を選びました。その私が天下安寧の妨げになるは、どうしても避けたいのです」

 弟の件を持ち出され、かすかに家光の表情が険しくなった。

「春日様の死を目の当たりにして、私はつくづく思いました。人の一生には限りがあります。限られた時間で何ができるか。私は春日様より大奥総取締の重責を任されました。この後、百年先、二百年先も将軍の世継ぎが健やかに育ち成長していく大奥をつくる。例え自らに子がなくとも、それが私に与えられた使命と、今は思っておりまする。

 そして例え体のつながりがなくとも、上様と私は、心は一つだと信じておりまする。その代わり、どうか玉に目をかけてやってくださいませ」


 結局、お万は二十歳の若さでお褥辞退となった。そして大奥総取締としての責務にまい進することとなる。春日局の時代には、大奥はいかにも質実剛健で武家風だった。ところが、お万によって次第に公家風の華美なものに変わっていく。

 大奥の襖絵にも「初音」、「紅葉賀」、「胡蝶」、「梅枝」等、源氏物語をモチーフにした派手なものが描かれるようになる。また女中たちに衣装も、春日局の時代に比べれば華美なものとなった。

 春日局時代の厳格な大奥の空気に、女中たちは半ば疲れていた。そして、お万による新たな大奥を歓迎した。しかしそのお万にも悩みはあった。その最たるものは家光の側室同士、お夏とお玉の仲が険悪だったことである。


 ある歌会の席でのことだった。まず玉が一句作った。


 夏の夜に 小袖を濡らす 湯の煙かな


 同じく歌会に参加していた夏の表情が険しくなった。自らが湯殿で家光のお手付きになったことを皮肉ったものと考えた。すかさず夏も句をつくる。


 茄子 胡瓜 畑を荒らす 玉虫の色


 元々、青菜売りの娘である玉の出自を皮肉ったものだった。


 元々両者は、同じ京育ちであることも逆に災いしてか、相性が非常に悪かった。しかも正保元年(一六四四)、お夏はついに家光の三男で長松を産む。これが後の甲府宰相徳川綱重である。さらに正保三年には、今度は玉が四男徳松をもうける。後の五代将軍綱吉である。

 両者共に人の親となり、いよいよ互いの競争意識も激しくなった。そして正保四年(一六四七)も夏の終わりを迎えようとしていた。


 大奥の女たちは基本、寺社への参拝という名目でしか外に出ることができない。お夏が、芝にある徳川の菩提寺である増上寺への参拝という名目で、城を抜け出しては向う場所があった。増上寺から、それほど遠くない場所にある雲龍寺という、浄土真宗の寺だった。

 この寺の住職は日運といい、お夏とは不思議な縁がある。出身は京都で医者の倅であった。お夏より二つ年上で、お夏がまだ遊郭に売られる前、まだ五つほどの幼女だった頃によく遊んだ仲だった。

 お夏の父は、とある小藩に仕える下級武士だった。藩内の派閥争いに巻きこまれ、ついには自害に追い込まれる。そして残された夏もまた、遊郭へと売られてしまったのである。

 遊郭に売られて以降は会ってなかったが、その後の日運は、家が貧しかったため寺に預けられることとなった。そして色々と事情があって江戸に出てきて、この雲龍寺で住職をしていた。増上寺への参拝帰りのお夏と、偶然再会したのは去年のことだった。

 この日は偶然、寺の小坊主たちも外へ出ており、比較的広い境内にはお夏と日運しかいない。

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