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【第三章】女王蜂(二)

「お久しゅうございます。お夏殿!」

「会いたかったぞ日運!」

 二人はまず挨拶代わりに抱き合った。

「早速だが例の一件のことだ。持ってまいったぞ例の若君の髪の毛じゃ」

 紙切れに包まれていたのは、亀松の髪の毛だった。

「承知致しました。私めの呪詛調伏で必ずや亡き者にしてくれましょう」

 と日運は驚くべきことを口にした。

「なれど、それがしは正直申しますと不安にございます。相手は徳川将軍家の若君。かようなことが、外にもれでもしたら事にございます」

 少し気の弱いところのある日運は、不安を口にする。

「そこを何とか頼みたいのじゃ。私はお蘭殿と竹千代君に頭を下げるのはまだ我慢できる。なれどもし竹千代君に何事かあったらどうなるか? 亀松が四代将軍となり、我が子長松が、家臣として臣従するということだけは我慢ならん。

 一番良いのは二人とも死ぬことじゃ。もし幸運にして長松に将軍の位が回ってきたら、私はそなたをどこまででも取り立てる。そなたの血筋の誰かを、大名にすることさえできるやもしれぬぞ。そのために、そなたには私と生死を共にしてほしいのじゃ。協力してほしい」

 と夏はどこまでも真顔でいう。そして同時に、胸を押さえてうずくまった。

「奥方様いかがいたしました」

「ちと具合が悪くなった横になっていいか?」

 夏は横なると、息を荒くした。

「ああ苦しい……そなたは医者の倅、わらわの胸の苦しみの原因がわからぬか?」

 そこまでいうと夏は、半ば無理矢理に日運の手を取り、自分の胸のあたりまでもっていった。日運は夏の意図を察し、しばし躊躇する。

「御方様、どうかご容赦を……」

「何も遠慮することはない。今日は他に誰もおらんではないか。私はむつみあいたいのじゃ。そなたと、まるで何もしらなかった幼い頃に戻って……」

 そのまま、夏はまるで絡みつくようにして、日運に抱きつきそして唇を交わすにいたる。ところがその時、日運は正気に帰り、夏の体を無理やり引き離した。

「どうかご容赦を……」

「何故じゃ!」

 と夏は不満を通りこして、怒りさえもかすかに浮かべた様子でいった。

 日運にはやはり恐れがあった。何しろ相手は将軍の側室なのである。ことが露見すれば打ち首は免れない。万が一にも破滅の坂を転がっていくような真似は、どうしても避けたかったのである。

 こうして日運による呪詛調伏が始まった。しかし、その効力はなかなか発揮されず、いつまでたっても玉の子亀松は元気なままだった。そのため、ついにお夏は実力行使にでるのだった。


 やがて秋をむかえた。亀松は五歳、夏の子長松は四歳である。親同士は犬猿の仲ではあるが、この兄弟の仲は決して悪くはなかった。

 亀松は同年代の男の子と比べて体も大きく、武士の子弟として、そろそろ弓を引く練習をはじめた。最初は中々的に当たらなかったが、次第に要領をつかみはじめる。次に鳥を射たり、たまたま城内に入りこんだ兎を射たりもした。

「兄上すごい! 長松も早く弓を引けるようになりだい……」

 長松はかすかに、兄に対して尊敬の様子をみせた。

 ところがである……。お夏はこのことを長松から聞いて一計を案じる。

 ある時、夏は蜂蜜をなめながら、長松の前で頭痛のふりをしてみせた。

「母上、いかがいたしたのですか?」

「長松、母は頭痛の持病がある。頭痛には蜂蜜が一番よくきくのじゃ。実はのう城の二の丸の近くに大きな池があり、その前に大きな松の木がある。そこにミツバチの巣があるのじゃ。すまぬがそなたの兄上に頼んで、ミツバチの巣を射てもらえないかのう」

 夏はわざわざ紙に簡単な地図まで書いて、長松に渡した。亀松は弟の頼みとあって、問題のハチの巣のある場所まで行くことにした。しかし長松自身は母から、そなたはまだ幼い、化け物に憑かれるゆえ一緒に行くなと、恐ろしい顔で念を押されていた。そのため何度誘っても同行しようとしない。結局、亀松一人で行くこととなった。

 亀松が問題の場所まで行くと、果たしてミツバチの巣らしきものがあった。亀松は見事巣を射抜くも、実はそれはミツバチの巣ではなかった。獰猛なスズメバチの巣だったのである。巣を破壊されたスズメバチは激高し、亀松は全身を毒針で刺されてついに絶命した。わずか五年の生涯だった。




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