玉の最初の子である亀松は、お夏の罠にはまり、幼い命を奪われてしまった。
家光はただちに、亀松に仕えていた近習の者たちを呼び出し、彼らを厳しく詰問した。
「何故目をはなした! そなた達、一体何をしておったのじゃ!」
「恐れながら、遠くから様子を見ておりましたが、恐らく鳥でも射るものとばかり……。よもや蜂の巣とは! 相手が蜂では、我等も若君をお守りする術もなく」
「たわけ!」
必死の弁明も空しく、近習の者たちは家光の命により、斬罪となった。
一方、最愛の我が子を亡くした玉は、ろくに食事もせずに終日般若心経を唱え続けた。以前から信心深かった玉は、この頃からいよいよ信仰にのめりこんでゆく。
「玉、そなたの身を案じてまいったぞ。たまには気晴らしに外にでも出たらどうじゃ」
訪ねてきたのは万だった。
「ほっといてくだされ。私がいかほど無念であるか、万様にわかりますまい」
と玉は冷たくいう。
「ならば、そなたが方々から芥子の種を集めてくるがよいぞ」
と万は皮肉を言った。これは仏教の説話である。
ある時、病気で子供を亡くした母親が、死者を生き返らせてほしいと釈迦の元を訪ねてきたことがあった。それに対し釈迦は、町をまわって死を経験したことのない家庭から芥子の種をもらい、一つかみほど集めてくるように指示した。しかし、母親がいかほど探しても、死者をだしたことのない家など存在しなかったのである。
「人はいつかは死ぬものじゃ。それに、そなたにはまだ徳松がおるではないか」
「納得がゆきませぬ!」
玉はぴしゃりと言った。
「聞けば、あの子は直前まで長松と共におったそうです。その長松は、夏が病気と称して、自らの部屋から一歩も外にでれぬようしておるとのこと」
玉は立ち上がった。
「どこへ行くつもりじゃ!」
「いうまでもなき事でございます。長松が全てを知っておるに違いない。私が直々に行って、事の真偽を問いただしてくれる!」
「気は確かかそなた! 相手は四歳じゃぞ! 何を問いただすつもりじゃ!」
「ええい! 問いただすことができぬなら、亀の仇じゃ! この手で絞め殺してくれる!」
「よさぬか!」
万は、ついに玉をその場に突き倒した。
「子のない万様にはわからぬのじゃ!」
この時万は、思わず玉の顔に平手打ちをくわえた。万にしてみれば、己の一生を否定された気がしたのである。玉はその場に伏して泣きはじめた。この頃から、あれほど仲のよかった万と玉の心の間に、隙間風が吹き始めたのである。
それから二月ほどが経過した。夏は再び増上寺に代参に赴き、帰路、雲龍寺にも立ち寄った。
その日は、小坊主たちも遠方に赴いており、寺には日運しかいなかった。そしてとうとう両者は、越えてはいけない一線をこえてしまう。
寺には巨大な仏像と仏壇があり、周辺に脱ぎ捨てられた襦袢や小袖、僧衣などが散乱した。
「いやはや、よもやあのようにうまくゆくとは思いもよらなんだ。これも母親の日頃の行いゆえだな」
と夏はさも愉快そうにいう。
「それにしても、蜂に刺されてお亡くなりになるとは、哀れな最期でありますなあ」
と日運は、夏の胸をなでながらいった。しかし夏はそれには答えず、なにやら思案している様子だった。
「いかがいたしました?」
「いや、蜂がうらやましくなったのじゃ」
「蜂がでございますか?」
「蜂の世界ではただ一匹、女王蜂しかおらん。あとの雌蜂、すなわち働き蜂には、一切生殖能力はない」
「なるほど、それでは蜂の世界には、側室同士の醜い争いなどはおきないのでありますな」
と日運は苦笑しながらいった。
「まあそこが、人間社会の面白いところではあるがのう。誰もが女王蜂になることができる。私は考えておったのじゃ。いっそのこと、私とそなたの子を上様の子と偽って、四代将軍にできぬかと……」
「なんと恐れ多い! 拙僧の子が将軍になど!」
と、やはり気の弱いところのある日運は顔色を変えた。
「今はまだ夢物語であるがのう。なれど私が女王蜂になることができたなら……そして私は負けはせん。あの女にも!」
と夏は眼光を鋭くした。しかし夏はまだ知らなかった。この時すでに、玉は復讐の機会をうかがっていたのである。