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【第三章】女王蜂(三)

 玉の最初の子である亀松は、お夏の罠にはまり、幼い命を奪われてしまった。

 家光はただちに、亀松に仕えていた近習の者たちを呼び出し、彼らを厳しく詰問した。

「何故目をはなした! そなた達、一体何をしておったのじゃ!」

「恐れながら、遠くから様子を見ておりましたが、恐らく鳥でも射るものとばかり……。よもや蜂の巣とは! 相手が蜂では、我等も若君をお守りする術もなく」

「たわけ!」

 必死の弁明も空しく、近習の者たちは家光の命により、斬罪となった。


 一方、最愛の我が子を亡くした玉は、ろくに食事もせずに終日般若心経を唱え続けた。以前から信心深かった玉は、この頃からいよいよ信仰にのめりこんでゆく。

「玉、そなたの身を案じてまいったぞ。たまには気晴らしに外にでも出たらどうじゃ」

 訪ねてきたのは万だった。

「ほっといてくだされ。私がいかほど無念であるか、万様にわかりますまい」

 と玉は冷たくいう。

「ならば、そなたが方々から芥子の種を集めてくるがよいぞ」

 と万は皮肉を言った。これは仏教の説話である。

 ある時、病気で子供を亡くした母親が、死者を生き返らせてほしいと釈迦の元を訪ねてきたことがあった。それに対し釈迦は、町をまわって死を経験したことのない家庭から芥子の種をもらい、一つかみほど集めてくるように指示した。しかし、母親がいかほど探しても、死者をだしたことのない家など存在しなかったのである。

「人はいつかは死ぬものじゃ。それに、そなたにはまだ徳松がおるではないか」

「納得がゆきませぬ!」

 玉はぴしゃりと言った。

「聞けば、あの子は直前まで長松と共におったそうです。その長松は、夏が病気と称して、自らの部屋から一歩も外にでれぬようしておるとのこと」

 玉は立ち上がった。

「どこへ行くつもりじゃ!」

「いうまでもなき事でございます。長松が全てを知っておるに違いない。私が直々に行って、事の真偽を問いただしてくれる!」

「気は確かかそなた! 相手は四歳じゃぞ! 何を問いただすつもりじゃ!」

「ええい! 問いただすことができぬなら、亀の仇じゃ! この手で絞め殺してくれる!」

「よさぬか!」

 万は、ついに玉をその場に突き倒した。

「子のない万様にはわからぬのじゃ!」

 この時万は、思わず玉の顔に平手打ちをくわえた。万にしてみれば、己の一生を否定された気がしたのである。玉はその場に伏して泣きはじめた。この頃から、あれほど仲のよかった万と玉の心の間に、隙間風が吹き始めたのである。


 それから二月ほどが経過した。夏は再び増上寺に代参に赴き、帰路、雲龍寺にも立ち寄った。

 その日は、小坊主たちも遠方に赴いており、寺には日運しかいなかった。そしてとうとう両者は、越えてはいけない一線をこえてしまう。

 寺には巨大な仏像と仏壇があり、周辺に脱ぎ捨てられた襦袢や小袖、僧衣などが散乱した。

「いやはや、よもやあのようにうまくゆくとは思いもよらなんだ。これも母親の日頃の行いゆえだな」

 と夏はさも愉快そうにいう。

「それにしても、蜂に刺されてお亡くなりになるとは、哀れな最期でありますなあ」

 と日運は、夏の胸をなでながらいった。しかし夏はそれには答えず、なにやら思案している様子だった。

「いかがいたしました?」

「いや、蜂がうらやましくなったのじゃ」

「蜂がでございますか?」

「蜂の世界ではただ一匹、女王蜂しかおらん。あとの雌蜂、すなわち働き蜂には、一切生殖能力はない」

「なるほど、それでは蜂の世界には、側室同士の醜い争いなどはおきないのでありますな」

 と日運は苦笑しながらいった。

「まあそこが、人間社会の面白いところではあるがのう。誰もが女王蜂になることができる。私は考えておったのじゃ。いっそのこと、私とそなたの子を上様の子と偽って、四代将軍にできぬかと……」

「なんと恐れ多い! 拙僧の子が将軍になど!」

 と、やはり気の弱いところのある日運は顔色を変えた。

「今はまだ夢物語であるがのう。なれど私が女王蜂になることができたなら……そして私は負けはせん。あの女にも!」

 と夏は眼光を鋭くした。しかし夏はまだ知らなかった。この時すでに、玉は復讐の機会をうかがっていたのである。




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