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【第三章】女王蜂(四)

 それから数日して、大奥中を信じられない噂がかけめぐった。夏と日運の関係が露見し、しかも長松は家光ではなく、日運と夏が密通してできた子であるというのである。

 ただちに夏は家光の呼び出しを受けた。そして、挨拶代わりに扇子が飛んできた。

「夏! ようも長年にわたって余をたばかってくれたな!」

「恐れながら、私は確かに増上寺参詣の帰路、雲龍寺に立ちよりました。なれどそれは祈祷のためであり、誓って、あの日運なる僧侶と関係をもった覚えなどありませぬ!」

 と、夏は顔面蒼白になりながらも、必死の抗弁をする。

「ならば、その証をいかにして立てるつもりじゃ!」

 と家光は、夏の前に仁王のように立ちはだかりながらいう。

「お待ちくだされ」

 と止めに入ったのは万だった。

「大奥総取締として申します。とかく女というものは口が軽いものであります。あらぬ流言飛語や風聞の類が乱れ飛ぶのは、女の園である大奥の宿命といっても過言ではありませぬ。こればかりは私はおろか、春日様をもってしてもどうすることもできませぬ。まだ真相ははっきりしておらず、私どもで調査中なれば、今しばらくのご猶予を」

「ならば十日だけ待つとしよう。それで夏の潔白が証明されなけれは首をはねる!」

 と家光は厳命した。

 しかし、当時はもちろんDNA鑑定などというものは存在しない。いかにして身の潔白を証明するか? ついに夏は窮余の策にでるのであった。


 その夜、夏は庭に出て鈴を三度鳴らした。

「玄光はおらぬか?」

「お呼びでございますか?」

 一体どこに潜んでいたのか、すでにそこに黒装束をした伊賀者らしき忍びが、片膝をつきひかえていた。

「こたびの騒動、そなたもすでに聞き及んでおろう。実は今すぐにこの書状を、雲龍寺の日運にとどけてほしいのじゃ。そのうえでじゃ……」

 夏は玄光の耳元で何事かをささやいた。瞬時、玄光の顔から血の気が引いた。

「承知いたしました」

 玄光は今一度片膝をつくと、たちまちのうちに夜の闇に消えた。

 しばし玄光の姿を見送った後、お夏はその場にがっくりと膝をつき、嗚咽ともとれる声をもらした。


 日付もかわって丑の刻(午前二時頃)のことだった。雲龍寺の日運は、夜分に何者かが己を呼ぶ声をかすかに聞いた。最初は空耳かと思ったが、目を開けると黒装束の怪しい男が目の前に立っていた。

「何奴!」

 日運は飛び起きた。玄光は素早く日運の口をふさいだ。

「怪しい者ではない。お夏様の密命を受けてここにまいった。門が閉じておったが、事は緊急を要するので、勝手に入らせてもらった」

「お夏様……? こんな夜分に一体何事でござるか?」

「極めて重大な案件でござる。よもや誰ぞ聞いておる者はおるまいな」

「小坊主たちなら皆寝ておりまする」

 玄光は素早く蝋燭を立てると、事の次第を語りはじめた。事態は日運が予想していたよりも、はるかに深刻だった。玄光は、二人の関係が大奥で噂として流れたことをまず伝えた。さらに長松が二人の不義密通の子であるという、日運にとり、まさに寝耳に水の風聞まで伝えた。次第に日運の顔から血の気が引いていった。

「まこと長松君が上様の子であるか、貴殿の子であるかそれがしにはわからん。なれど事ここに至っては、事態を解決する方法は一つしかござらぬ」

 そこまでいうと玄光は懐から、例のお夏からたくされた書状を取り出した。

「なんでござるかそれは?」

「お夏様が書いた、そなたの遺書じゃ」

 玄光は恐ろしい顔でいった。

「不義密通の事、一切は濡れ衣に候。今回の件、僧侶として人として、憤慨の極み。よってここに死をもって身の潔白を……」

 読み進むにつれて、日運は手の震えが止まらなくなった。

「お許しを! どうか命ばかりは!」

 とついに日運は命乞いをはじめた。

「事は緊急を要すると申したはずじゃ! 明日にでも、この寺には幕府の手が回る。いずれにせよ、そなたただではすまぬ。そうなってからでは遅いのじゃ!」

 玄光は縄を取り出し、日運が叫ぶ間もなく首に巻きつけた。日運は抗うも、忍びの力には歯が立たない。

「よう聞け! これがお夏様よりの最後の伝言じゃ。そなたを愛していたは、嘘でも偽りでもない、誠であったとな! これも身のさだめと思われよ!」

「お夏……様……」

 翌朝、小坊主たちが目を覚ます頃には、日運は天井から吊るされていた。ほどなく幕府の使者が現れ、問題の日運の遺書らしきものは、将軍のもとへ届けられた。

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