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【第三章】女王蜂(五)

「うぬ、やはり根も葉もない風聞であったか」

 と将軍は、偽の遺書であることも知らず、全て読み終わってため息をついた。

「夏には気の毒なことをした。かくなるたるうえは、噂を流した者を、探しださねばなるまい」

「今、調査中にございます」

 と万が答えた。

「その者は夏だけでなく、この余をも欺いた。そして罪なき僧侶を死に至らしめたのじゃ。草の根わけても探しだせ」

 そして調査の結果、噂の出どころが玉であることが判明してしまった。万は玉を呼び出し、事を厳しく追及する。

「なれど私が放った間者の報告によると、夏が、かの日運なる僧侶と関係をもったことは間違いないと!」

 追いつめられた玉は、必死の反論をする。

「それでは死人が嘘を申したと、そなたはいうか?」

「それは……」

 玉は返答に窮した。

「もし仮に不義密通があったとして、長松君が日運の子であるというは、何か根拠があって申しておるのか?」

「申し訳ありませぬ。その件は私めの作り話しにございます! なれど決してありえないことでもないかと……」

「玉、それは長松君に対して非礼であるばかりか、上様をもあざむいたも同じじゃ。どの道そなた責めは免れぬぞ」

 と万は、半ばうんざりしたように言った。

「今となっては覚悟しておりまする」

 結局、玉は住み慣れた大奥を退去し、家光の許しがあるまで中の丸に移ることとなった。

 しかし、万にも腑に落ちぬことが一つだけあった。一体誰が、幕府の手が回る前に日運に事の緊急を告げたのか? ここから万の脳裏に一つの疑念がよぎる。


 数日して今度は、夏が万の呼び出しを受けた。

「よいかこれは上様の思し召しじゃ。心して聞くよう」

 と万は念を押す。

「上様の三男である長松君におかれては、上様の厄年の生まれである。これは極めて不吉である。よって長松君と生母であるお夏殿は、天樹院様の寺へ預けることとする」

「何故でございます?」

 と夏は、信じられぬという様子でたずねた。

「今申したとおりじゃ」

「それは表向きの理由でございましょう。誠の理由をお聞かせくだされ。まだ私を疑っておいでか!」

 すると万は、打掛をひるがえしながら夏の近くまで行き、真実を語りはじめた。

「よいか夏殿よう聞くがよい。玉を問いただしたところ、長松君の出生に関することは、全くの作り話しであることが明らかとなった。なれど、例の遺書を御右筆の者たちに調べさせた。そして、まぎれもなく、そなたの筆であることが判明したのじゃ」

 一瞬、夏の目が泳いだ。

「夏! 今一度聞く! かの日運なる僧侶との間にいかがわしい事あるやなしや!」

「天地神明に誓って、かような事はございませぬ!」

 と夏は、額を畳にこすりつけていう。

「いずれにせよ、そなたは己の保身のため、それも僧籍に入っているものを殺めたのじゃ。天樹院様はそれは、それは情け深い方じゃ……」

「恐れながら、それだけは!」

「まだわからぬのか夏殿! 上様にその意思がおありなら、そなたと長松には、もっと苛酷な処分がくだってもおかしくないところじゃ。それを上様の姉君のもとに預けるは、そなたと、そして長松君を信じたいがためじゃ。なぜ上様の胸中を理解しようとせぬ」

「上様の……慈悲の心に感謝いたします」

 と夏はかろうじて頭を下げた。

 ちなみに天樹院とは、徳川家康の孫で家光にとっても姉にあたる。あの豊臣秀頼の未亡人で、世上千姫として、あまりに有名な女性の尼となった後の名である。


 こうして夏と玉はいずれも、一月ほどの準備期間を経て、共に大奥から退去することとなった。

 旅立ちの日、不幸にして、両者は廊下でパッタリと顔を合わせてしまった。双方しばしのにらみ合いの末、無言ですれ違うのかと思えば、そうはいかなかった。玉が故意に、夏の打掛の裾を踏みつけたのである。夏は前のめりに倒れ、顔面を強打した。これが戦闘開始の合図となった。

「己! よくも!」

 鼻血を流しながらも、夏も負けずに玉に体当たりをくらわす。双方すさまじいまでの大喧嘩となった。

「正直に申せ! 亀が死んだのは長松とそなたのせいであろう!」

「何をいうか! 四歳児がどうやって人を殺めるのじゃ! 馬鹿ではあるまいか!」

「何を! 上様に湯殿で汚された売女めが!」

 双方の部屋方の者が発見するまで、両者の壮絶な戦いが続いた。ようやく二人が引き離される頃には、夏の顔には無数の引っかき傷があった。玉もまた髪を振り乱し、小袖も破れ肌が露出していた。

 これが両者の壮絶な、別れ際の挨拶となってしまった。




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