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6月 36

 ドマスの大株主が要らぬことをした結果、現場は混乱し、もしかすると植村忠明の希死願望が膨らんだのかもしれない。いや、植村の心情については想像の域を出ないので、社内に混乱と、新規の取引先に不信感をもたらしたかもしれないことだけが、株主と上層部の過失だろう。

 三喜雄は野積に、感じた通りを告げた。


「私は経営のことはわかりません、でもこのことでカレンバウアーさんが、ドマスとの将来にまで言及するとは思えないです」


 野積はやや諦めの色が入った微笑を浮かべた。


「だったらいいんですけどね、外国企業は結果重視ですから」


 その時、看護師が扉をノックして顔を覗かせた。三喜雄が次々と来客に対応しているので、疲れていないか様子を見に来てくれたらしかった。

 野積は事情を察したのか、すぐに立ち上がった。三喜雄が苅谷にもよろしく伝えてほしいと言うと、相好を崩す。


「苅谷はすっかり片山さんのファンになっていますので、喜びます」


 インタビューの動画を撮影した時、確かに苅谷は楽しそうだったことを、三喜雄は思い出す。


「そうなんですか、ありがとうございます……」


 野積をエレベーターホールまで見送ると、昼食の用意が始まっているらしく、ハンバーグっぽい匂いがしてきた。看護師が少し難しい顔になる。


「少しお客さんが多過ぎますね、夕方まで面会謝絶にして休みましょうか……喉も本調子じゃないんですから」

「はい、すみません」


 三喜雄も喉のかすれが気になっていたので、面会謝絶は大げさだが、看護師の提案に従うことにした。深田にメッセージを送ってから、瀧やカレンバウアーに、夕方まで静かに過ごすつもりだと伝えて……まああの2人なら、来てくれても全然構わないのだけれど。

 昼食は豆腐ハンバーグとサラダだった。自分で作らないご飯は美味しいと思いながら、三喜雄はしっかり食べた。




 昼休み中らしい深田は、メッセージの返事に、自分が力になれそうなことなら何でも言ってほしいと書いてきた。ピアニストの人選でややしくじったドマスの事情は、彼ももちろん知っているだろうが、触れないことにした。

 優しい深田のことだから、いろいろ遡り過ぎて、自分のせいで三喜雄が焼け出されたなどと言い出しかねない。だから三喜雄は深田に、退院したらひとまずホテルに移ることや、週末にマンションの様子を見に行く予定にしていることなどを、なるべく細かく知らせておく。平和な日常生活を失って不安が無いと言えば嘘になるが、指の怪我だけで済んだのだから、しばし宿無しになっても大丈夫だと伝えたかった。


『火事のあったマンションに、片やんが住んでたと特定されるのは時間の問題だと思う。俺は会社以外の誰かに探り入れられても、今のところごまかしてるんだけど』


 深田の報告に、三喜雄はぎょっとする。自分の住居を特定して、何かいいことがあるのか、疑問でしかない。


『誰がそんなこと訊いてくるの?』

『近所のおばちゃんとか大学時代の歌友とか』


 深田は池袋の実家で、両親と一緒に暮らしている。彼は2つの大学を卒業していて、最初の総合大学で所属していた混声合唱部の友人と仲が良いのも知っているので、それは仕方ないと思った。


『ドマスのCMの歌の人と知り合いとか言いふらした笑?』

『自分の会社のことだから親には一応報告するし、合唱部友は片やんと俺が知り合いって知ってる。アマチュア合唱団で去年片やんと共演したって報告くれた奴もいるよ笑笑』

『そうなの? 皆様によろしくお伝えください。ご家族とか親しい人には、ネタにしてくれて全然いいです』


 しかし深田は、自分がごく親しい人だけに話したつもりでも、相手がどこに拡散するかわからないと返してきた。そろそろ指を怪我したことをSNSで報告しようかと考えていた三喜雄は、深田のほうが危機管理能力が高いことを知る。

 深田との半ば他愛ないやり取りは、三喜雄の気持ちをほっとさせた。ナースステーションで止めているかどうかわからないが、来客も途絶えたので、スマートフォンを置いてベッドに横になる。

 やはり病院の隣の棟しか見えない窓に視線をやって、歌いたいとぼんやり考える。この建物の中に、大声を出してもいい場所はないのだろうか。ある訳ないか。医師と看護師が今度来たら、一番近いカラオケボックスか貸しスタジオに2時間ほど外出していいか、訊いてみようと思う。

 今日も15時に耳鼻科の診察室に行くので、それまで昼寝することにした。


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