耳鼻咽喉科で昨日と同じ医師に状態を確認してもらった三喜雄は、午前中に訪問者たちと火事の話をしている途中、嫌な感じがあったことを正直に伝えた。医師は、心理的なものかもしれないと、あっさりと言う。
「ショックで一時的に失声してしまうことって、案外あるんですよ……ストレスが取り除かれたらけろっと治る場合も多いです」
医師のその話のほうがショックだった。三喜雄は不安になる。
「ずっと続いたら、どうしたらいいですか?」
「まずあまり思い詰めないでくださいね、自宅が火事に遭うというのはとてもストレス度が高い経験なので、心因性の障害がどこかしらに起こる可能性は誰にでもあります」
医師は昨日の内視鏡検査で撮影した三喜雄の声帯を、もう一度見せてくれる。
「気になる所見はほんとに無いんです、きれいな声帯で、鼻腔や咽頭に傷も炎症も無い……となると、気になる状態が続くなら、抗不安剤などを処方する流れになります」
三喜雄に諭すような医師の声は、あくまで静かだった。
「火事の話をする時に違和感が出るなら、その話をしないのが一番いい予防です……時間が経つと嫌な記憶は薄れますから、それまで昨日のことに極力触れないようにするといいと思います」
三喜雄は自分が、そんなにデリケートなんだろうかと思う。対人関係で傷つくようなことがあると、歌いたくないと感じたことはあった。しかし、風邪をひいた訳でもないのに、物理的に声が出なくなることはなかった。
「片山さん、今かかりつけで喉を診てもらってる先生っていらっしゃいます?」
医師に訊かれて、いえ、とかぶりを振った。そんな必要が無かったので、札幌でも東京でも、専門医の世話になったことは無い。
医師は少し驚いたようだった。
「かかりつけ無しでずっと歌って来られたんですか? 声帯に負担がかからないよう歌ってらっしゃるのかな」
「あ、それは学生時代から、歌の先生に結構言われてきたので……」
「素晴らしいですね」
塚山は、大学院生時代に一度風邪を拗らせ喉を潰して以来、東京駅近くの有名な先生のところに行っている。イタリアに留学中も、あちらの医者は信用できないと言って、帰国すればその先生に診てもらっていたようだ。
「一応歌手としては、そういう先生と知り合っておくほうがいいものなんでしょうか?」
三喜雄が問うと、そうですねぇ、と医師は答えた。
「僕の先輩が五反田で喉主体の耳鼻科やってるんです、薬をどばどば出さない主義で、心療内科と提携してメンタル面のフォローもしてるので、お薦めしようかなと思いました」
これから仕事が増えて、年齢を重ねていくと、お世話にならないといけない場面も出てくるかもしれない。三喜雄は五反田のクリニックの案内をもらうことにした。
「紹介状じゃないですけど、僕の一筆をつけておきます……ちょっと変人というか、患者を沢山抱えてあくせく診察したくないとか言う人で、一見さんがあまり好きでないんですよ」
「……それって変わってるんですか?」
あくせく歌いたくない三喜雄は共感したので訊いたが、医師は声を立てて笑った。
「開業医ですよ、患者に来てもらわないとやっていけないはずなんですけどねぇ」
「あ、そう……ですよね」
ばたばたして仕事のクオリティを下げたくないけれど、仕事の数を増やさないと食べていけないというジレンマは、医師も音楽家も一緒らしい。
その後、鼻の奥と喉に薬をかけてもらい、吸入をしてから病室に戻った。薬の匂いが鼻腔に漂うのを感じるが、あの忌まわしい煙の臭いに比べたら、清々しいくらいだった。