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7月 21

 夏の日射しに耐えながら、ほぼ旧居となっているマンションに到着した三喜雄は、エレベーターやそこに通じるフロアに、養生用のブルーシートとパネルが貼ってあることにまず気づいた。今から誰か引っ越すのだろう。

 管理人に声をかけると、彼は監視カメラのモニターからぱっと顔を上げて笑顔になった。


「こんにちは片山さん、明日の準備ですか?」

「はい、今日これから大きな家具とか家電を引き取りに来てもらいます」


 三喜雄は明日だとばたばたするので、と前置きして、買ったばかりの粗品の包みを管理人に手渡した。老人は驚きの表情になる。


「私がこういうものを受け取る訳にはいきませんよ」

「いえ、とてもお世話になったので……大したものじゃなくて申し訳ないくらいで」


 管理人は三喜雄の言葉に、頭を下げた。


「ありがとうございます……見ての通り、これから2軒出て行かれます、火を出した部屋のお隣りと、斜め下の部屋のかたです」


 明日も三喜雄と、「被災者」のうちの1人が出ていくという。そう聞かされると、寂寥感を覚えた。

 ふと思い出して、管理人に尋ねる。


「火が出た下の階に住んでる女性で、オーボエかクラリネットを吹いてるかたって分かりませんか? あの日タオルを借りて、そのままなんです……部屋が水浸しになったと話してらしたので、避難中だと思うんですけど」


 管理人はすぐに、三喜雄の尋ね人を理解した。


「オーボイストの芹沢せりざわさんかと思います、来週一度こっちに来るとおっしゃってたので、片山さんがいいのでしたら、明日お預かりしましょう」


 有り難い申し出だったので、三喜雄は頼むことにした。

 自分の部屋に向かう前に、新居の住所を管理人に伝えた。カレンバウアー様方、という言葉をこれからしばらく出さなくてはいけないことに対して、三喜雄はこれまで経験の無い気持ちになる。

 この年になって他人の家に下宿し、宿主と暮らすことになろうとは。もしかすると結婚をすると、最初こういう感じなのかもしれない。別に三喜雄は、カレンバウアーと暮らすのが楽しみなわけではないけれど。

 部屋の扉を開け、先週去った時のままの室内に入る。今からリサイクルショップに持って行ってもらう家具の中身と、本棚にあったものは箱詰めが終わっている。三喜雄はエアコンを点けて、ダンボール箱を組み立て始めた。

 焦げ臭さはほとんど感じないが、もうこの部屋に戻りたいとは思わなかった。布団を退けて裸になったベッドを視界に入れた三喜雄は、カレンバウアー邸の高級ベッドに負けたと認めた。

 三喜雄は自分に流されやすい面があることを理解している。はっきり言って、歌人生は流され続けた結果が今立つ場所だった。別にそれが気に入らない訳ではなく、割と自分は運が強いかもしれないとも思う。

 カレンバウアーの家にお邪魔することも、迷ったし納得できていない部分もあるが、悪い結果にならなければ、それでいいと考え始めていた。

 タンスの中身が全て箱に入った頃、リサイクルショップの人たちが時間通りにやってきた。めくれ上がった床の上を歩いてもらうのは少し怖かったが、男性2人でてきぱきと冷蔵庫や電子レンジを運んでいく。

 ベッドはあっという間に分解されて、運び出された。タキシードとスーツを入れた箱を渡して終わりだった。預かり証を受け取り、三喜雄はほぼがらんどうになった部屋を見渡す。

 大事な仕事が終わったので、引っ越しの粗品をまず上の部屋に持って行った。留守のようなので、袋にメモをつけてドアノブにぶら下げておく。隣は在宅で、すぐに出てきてくれた。


「片山さん、無事で何よりでした……やっぱり引っ越してしまうんですね」


 パーカッショニストの黒澤くろさわは、残念そうな声音になった。


「私も引っ越そうかなと考えてるんですよ、下の階に住んでた人が火を出して自死したっていうのが、どうも……」


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