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7月 23

 翌日の夕刻、決して多くはない荷物を全て新しい部屋に運びこみ、三喜雄の新生活が本格的に始まった。小雨に降られて蒸し暑く、夏に引っ越しなんかするもんじゃないと思わざるを得なかったが、新しいベッドしか無かった部屋に見慣れた机やタンスが置かれると、ようやく自分の部屋だと思えてほっとする。

 カレンバウアーは日曜日にもかかわらず、午前中は会社に顔を出していたが、三喜雄の移動が始まる時間に合わせて帰宅してくれていた。おかげで荷物をスムーズに入れることができて、あっという間に引っ越しは終わったのだった。

 カレンバウアーは、三喜雄の服や本が出された後のダンボール箱を畳んでいたが、荷物が少ないことに驚いた。


「服や靴が少な過ぎます、やっぱりちょっと買わなくちゃいけません」


 着るものに金を使う習性が無い三喜雄には、何故カレンバウアーがそんな危機感みたいなものを滲ませるのか、さっぱりわからない。


「ドイツから戻ってしばらく実家にいて、東京に出てきて2年なんで、着るものは少ないと思うんですけど……」


 三喜雄は一応、言い訳をしておく。カレンバウアーは机の横に置かれた本棚を、ちらっと見た。


「2年の割に、楽譜と本は多いみたいですが」

「必要経費です、こっちに優先的にお金を使ってるだけのことです」


 三喜雄が楽譜を真っ直ぐに立て直しながら言うと、もちろんそれは大事ですよ、とカレンバウアーは応じた。


「でも片山さんは少し注目を浴びる立場になったんですから、いつもそういう恰好で出歩くのは、あまり好ましくありません」


 三喜雄はTシャツにジーンズ姿だったが、今日は引っ越しなのだから当たり前だ。


「仕事の時はこれは無いですから」


 するとカレンバウアーは、あっ、と言って手を止めた。


「タキシードをセカンドハンドに渡したと言いましたね? 一番近い本番はいつですか」

「え? 8月の大学のオープンキャンパスは、タキシードでは歌わないので……10月中旬ですかね?」


 三喜雄ののんびりした返答に、カレンバウアーはあ然とした。


「間に合わないじゃないですか、燕尾で出ますか?」

「あ、燕尾を借りるほうが楽ですね」


 オーケストラに所属している人はマイ燕尾が必要だが、合唱団はタキシードが普通だ。声楽の男性ソリストも、燕尾でなくていい場合も多い。三喜雄は帰国してから今まで、舞台で燕尾服を求められたのは2回だけで、その時はレンタルしたのだった。

 ところがカレンバウアーは、三喜雄の言葉にますますあ然とする。


「自分の燕尾服は持っていないのですか?」

「はい」


 三喜雄はカレンバウアーが何故呆れているのかわからなかった。彼は少し怒ったように、低い声で言う。


「ソリストがタキシードも燕尾も手元に無いなんて……直ぐにでも作りに行かないと」


 三喜雄としては、タキシードなど既製品で良かった。昨日リサイクルショップに引き取ってもらった、大学1回生の頃に初めて作ったものはイージーオーダーだったので、着心地もよく、本当に一張羅だったけれど。

 カレンバウアーはいきなり宣言した。


「知っている店に電話します」

「は?」


 三喜雄が止める間もなく、カレンバウアーは部屋を出ていってしまう。嫌な予感がしつつ、本棚の整理を続けていると、家主は5分ほどして荷解き中の部屋に戻ってきた。


「明日の夜に麻布のテーラーに採寸に行きますよ、7時なら間に合いますね?」

「えっ……さいすん?」


 漫画を手にしたまま、今度は三喜雄のほうがあ然となった。カレンバウアーは念を押すように言う。


「そうですよ、きちんとサイズを測って身体に合ったものを作らなくては……3ヶ月あれば、タキシードなら間に合うと言ってくれましたから、燕尾も一緒に頼んで先にタキシードを受け取りましょう」


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