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7月 24

 三喜雄は漫画を落としそうになった。フルオーダーなんかしたら、タキシードは30万、燕尾は50万くらいするだろうが! しかも今、同時につくるって言ったか? 顔から血の気が引くという感覚を、久々に味わった。


「カレンバウアーさん、そんないい服は要らないです、別に何を着たって一緒です」


 ほとんど恐怖に近い気持ちから、三喜雄の声が上擦る。しかしカレンバウアーは、今日はびしりと返してきた。


「一緒じゃないです、音楽家が本番の衣装を自分に合わせて作るのは当然ですよ、あなたは歌手でしょう?」


 歌手だから、何だって構わないのだ。弦楽器やピアノのように全身を使い、1時間ぶっ通しで演奏するようなことは、声楽ではあり得ない。自前のフォーマルで長時間歌うとすれば、ソロのリサイタルくらいだと思う。オペラなら歩き回ることも多いが、役をもらった場合は、衣装は歌い手に合わせて用意してくれる。

 三喜雄がそう説明すると、カレンバウアーは溜め息をついた。本気で呆れられたようである。


「……日本の若い男性演奏家が、本番の正装に対してそんな認識だとは……」


 主語が大きくなり過ぎなので、三喜雄はちょっと苛立ち、言葉が雑になった。


「金がある奴はフルオーダーしてるかもしれませんから、これは俺個人の認識です」

「では少し認識を改めましょうか、お金の有る無しの問題ではありません」


 カレンバウアーの目が真剣で、顔に迫力があるので、思わず三喜雄は怯んだ。まあ確かに今タキシードを作るなら、本番も増えることなので、少しいいものを選ぶのもアリかもしれないが。


「……わかりました、後で店の名前を教えてください、でも予算を大幅にオーバーしたら頼みませんし、燕尾を同時にとかあり得ないので」


 三喜雄は能う限りきっぱりと言ったつもりだったが、カレンバウアーは軽く眉間に皺を寄せる。


「何度も採寸に行くのは時間の無駄です、それとお金の心配はしなくていいです」


 こいつはまた! 三喜雄は漫画を本棚にやや乱暴に置いた。


「だから、そんなことをしてもらう理由が無いって……」

「引っ越し祝いですよ」

「それはベッドとカーテンです」


 三喜雄の即答に、カレンバウアーは少し考える顔になった。


「引っ越しやホテル暮らしに結構出費したでしょう?」

「……職場とドマスと、あとフォーゲルベッカーからもお見舞いをいただいたので、それでほぼフォローできました」


 というのはやや誇張で、ホテル住まいの負担はやはり大きかった。しかし何せCMの出演料が予想外の金額だったので、結果的に再起不能になるような出費ではなかったのだった。

 カレンバウアーは頑固なバリトン歌手に対して、怒りではない感情を抱いたらしく、呆れ顔を少し緩めた。


「では私の個人的な希望につき合ってください……片山さんは歌う時の立ち姿がきれいなので、よりきれいに見える衣装を着てほしいです」

「……は?」


 すぐに理解できなかったが、嫌だと言えない空気感が漂った。言葉を飲んだ三喜雄に向かって、彼は続けた。


「日本の風習で、子どもが一定の年齢になったら、着物を着せてお参りに行くというのがありますね?」


 三喜雄は少し考えて、まさかと思いつつ口にする。


「七五三、のことですか?」

「そう、それです、その時の親のような気持ちかもしれません」


 カレンバウアーは楽しそうに言って、破顔した。三喜雄は最早返す言葉も無く、呆然とするしかなかったが、こいつ楽しそうだからまあいいかと、だんだんと思い始めてしまった。

 ……わかりました。きれいなお衣装を着せてもらって、いい写真が残せるように頑張ります。


「一段落ついたら、お隣りと下に挨拶に行きましょう……その後に引っ越しそばを作りますね」


 カレンバウアーの弾んだ声を聞きながら、引っ越しそばなんか作れるのかと軽く驚いた。何にせよ挨拶は時間が遅くならないほうがいいので、三喜雄は空になったダンボール箱のガムテープを、ばりばりと剥がし始めた。


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