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7月 25

 三喜雄はカレンバウアー邸の下宿人なので、宿主にもついてきてもらい、近隣住人に引っ越しの挨拶をした。こんなマンションに住んでいるのはどんなセレブかと思い、かなり緊張して挨拶に臨んだ。

 階下の部屋の奥方らしき、三喜雄とあまり年齢が変わらない女性は、薄化粧に普段着ですぐに出てきて、洗剤とラップのセットとクッキーの包みを笑顔で受け取ってくれた。音を出すかもしれない旨を伝えると、こちらも2人の子らがピアノを弾くので、たぶん余程うるさいと思うと、逆に謝られてしまった。


「あの家のお子さんたちは、片山さんが勤めてる小学校に行ってると思うんです……制服がね」


 エレベーターに乗ると、カレンバウアーがそんな情報を口にした。この辺りの住人ならさもありなんだが、もしかしたら教えている可能性があり、世の中の狭さを感じた。

 隣の山下やました家は、ご主人がカレンバウアー同様会社のトップクラスで、部屋は会社のものだということだった。再び緊張して呼び鈴を押すと、若い男性がインターホンに出た。


「こんばんは、隣のカレンバウアーさんのところにしばらく世話になることになった、片山と申します」


 三喜雄が噛みそうになりながら言うと、インターホンの向こうで、えっ! と声がして、お待ちください、という言葉が続いた。

 慌てたように開いたドアから出てきた男性は、Tシャツにイージーパンツ姿だった。大学生くらいかなと目星をつける三喜雄の顔を、彼はじっと見つめる。


「ああ、やっぱり片山三喜雄さんだ!」

「あ、はい、そうです」


 カレンバウアーが言う通り、三喜雄は多少顔が売れ始めているようだ。あまりおかしな真似はできないなと思った。

 山下某君は賢そうな整った顔をしていたが、自分と似たオタク風味を醸し出していることに三喜雄は気づいてしまう。果たして彼は、目をきらきらさせながら早口で喋り始めた。


「SNSで引っ越したって言ってらしたじゃないですか、昨日カルミナのバリトンソロがちらっと聴こえて、フォーゲルベッカーのカレンバウアーさんとこだけに、もしかしたら片山さんじゃないのなんて、家族と話してたところなんです!」

「あ、そうでしたか、休みの日に朝からうるさくしてごめんなさい……」

「いえ! うちは全然いいんです! 僕もちょっと歌うので、あっでも下手だから聴こえたら恥ずかしい……」


 自己完結しそうな山下の語りに、三喜雄は笑いそうになる。

 三喜雄が「カルミナ・ブラーナ」を歌うことを知っていて、自分も歌うと山下が言うので、もしかしたらと思うと、やはり彼は演奏会の合唱のメンバーだった。 


「めっちゃ楽しみにしてます! 合唱みんな頑張ってるんで、よろしくお願いします!」

「こちらこそ、カルミナのソロは初めてなんですけど、よろしくお願いします」

「えっ、そんな、ソリストのかたに言われたら何て返事したらいいかわからないですっ」


 ハイテンションな大学生の話し声は高めだったが、パートはバスだという。それを尋ねただけで更に山下のテンションが上がったので、三喜雄は危うく粗品を渡すのを忘れるところだった。

 名残り惜しそうな山下に再度、これからよろしくお願いします、と一礼した三喜雄は、カレンバウアーについて隣の部屋に戻った。近隣に音楽をしている人が暮らしているのは、理解を得やすく有り難かった。


「片山さんが人気者なので、こちらも嬉しいですね」


 カレンバウアーは三喜雄が靴を脱ぐのを待ちながら、言った。三喜雄も確かに、ああして若い人から憧れの視線を向けられるのは、悪い気分ではない。


「カルミナは交代で受けた仕事ですから、合唱のメンバーからあんな風に言ってもらえて、安心しました」

「私はあまり家にいないので気づかなかったんですが、お隣さんが歌い手で良かったですね」


 三喜雄は頷きながらリビングに入った。コロナ禍の最中はかなり迫害された合唱だが、若い人たちが普通に練習できるようになったという事実にもじんとくる。

 カレンバウアーは冷蔵庫から蕎麦だしと蕎麦を2袋ずつ出した。


「すぐにできる作り方を、会社で教えてもらいました……座って待っててください」


 彼はだしを鍋にあけて火にかけ、包丁を手に青葱を刻み始める。リズミカルにまな板が音を立てるので、使い慣れているのだなと三喜雄は感心する。

 もうひとつカレンバウアーが冷蔵庫から出したのは、かき揚げの入ったパックだった。久しぶりに見る丸い揚げ物に、三喜雄の目が吸い寄せられる。蕎麦の仕上がりが楽しみだった。



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