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7 トラウマとのたたかい

7月 26

 カレンバウアー邸での下宿生活は、三喜雄の気持ちの安定に大いに効果があった。半強制的に麻布のテーラーに連れて行かれたり、運動をきちんとしたほうがいいと近所のスポーツジムに登録させられたりして、家主の過剰な世話焼きムーブメントに常に振り回されている以外は、極めて平和である。住民票を目黒に移し、左小指を固定していた粘着包帯を外すと、日常が戻った感があった。

 フォーゲルベッカーのきな粉チョコレートのCMは、松本咲真の伴奏で歌うことが決まった。あらかじめ松本に、もしかしたら日本歌曲の伴奏頼むかも、と連絡はしておいた。ただ三喜雄からは曖昧に伝えるしかなかったため、ドイツのフォーゲルベッカーから正式な依頼を受けた松本から、驚愕のメッセージが来てしまった。


『国内のピアノのコンクールでも3位以内に入ったことない俺が、CMでヨーロッパデビューなんて(泣)』


 三喜雄はこの仕事がヨーロッパデビューとはあまり考えていないが、関西を拠点にすると明言し敢えて東京に出てこない松本が、知名度を東京より先にヨーロッパで上げる事ができれば面白いと思っていた。

 「落葉松」1曲ではもったいないので、何か別の曲を撮影なり録音なりして、たとえばチョコレートの購入者特典にできればという話が、フォーゲルベッカーの広報から来ていた。拒む理由は無い。何語の曲でもいいというので、松本にも意見を求めると、彼はシューベルトの「魔王」がいいと言った。


『俺あの伴奏燃えるし、片山が歌ったら萌えそうやから』


 何故松本が同音異義語で遊んでいるのかよくわからなかったが、「魔王」はチャレンジングでいいと思う。カレンバウアーに話してみると、彼も賛成してくれて、この間オンライン会議をしていた人に伝えると言った。




 松本が東京に来ることができる日に合わせ、録音に入る段取りになったので、三喜雄は早速レッスンで国見にこの2曲を聴いてもらった。すると予想通り、「魔王」には渋い顔をされてしまった。


「オペラじゃないからね……4人のキャラクターの歌い分けは大事だけど、それはちょっとやり過ぎかな」


 この曲には、語り手、父、息子、魔王の4人が登場して、それぞれが台詞を持つ。藤巻陽一郎が歌う「魔王」には、息子を誘惑する魔王にえも言われぬ魅力があるのだが、それに影響されている自覚が三喜雄にはあった。おそらく国見も、そのことに気づいている。


「誰に重点を置くかは、片山くんの自由だ……でも歌うのはきみ1人で、これが歌曲であることを忘れずに、もう少し練ってごらん」


 キャラクターを切り離すなということだろうか。三喜雄は国見の考えを乞うた。


「僕はね、講談と思って歌ったよ……語り手は最初と最後だけ出てくるだろう? 彼が3役を演じて、ゲーテのつくった物語をお客さんに聞かせてるんだ」


 国見の言葉に、なるほど、と思った。講談は面白い。


「ちょっと作り直してみます」


 国見は弟子の言葉に頷いたが、あまり考え過ぎないようにも、アドバイスした。


「この曲はピアノの役目も大きいから、ピアニストとも話し合って……今ちょうどドイツの人と暮らしてるんだから、そちらの好みに寄せてみてもいいかもしれないね」


 楽譜の通りとこれまで三喜雄に話してきたカレンバウアーなら、たぶんオペラチックな作り方は求めないだろうと思う。シューベルトは楽譜の中で、言葉を使って細かな指示をしていないからだ。


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