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7月 27

 カレンバウアーに日本語の読み書きを教えるのは難しいが、自分の勉強にもなるので、小中学生に音楽を教えるのと同じくらい、三喜雄は準備して臨むようにしていた。

 外国語の習得には不断の努力が必要なので、カレンバウアーの帰宅が22時を過ぎる時以外は、彼の勉強につき合っている。聴くのと話すのがほぼ苦にならないカレンバウアーは、予想通り、早々に小学校1、2年生で習う漢字をマスターしつつあった。少しだけ漢字が混じった子ども向けの本を止まらず音読できるようになり、マス目の中に書き取る字も整ってきている(大きな身体のドイツ人が、手本に合わせて鉛筆で漢字を無心に書く姿は、なかなか微笑ましい)。


「日本人の苗字にも名前にも、固有の意味があるというのがどういうことなのか、やっとわかってきました」


 カレンバウアーは鉛筆片手に、楽しげに言った。アルファベットは表音文字なので、漢字が表意文字だということが、なかなか理解できないらしかった。それも当然で、三喜雄も知らなかったのだが、今地球上で使われている言語で、表意文字は漢字しか無いのである。


「苗字って、古い家柄以外の人は1800年代後半に作られたものなんで、土地とかを表してることが多いみたいです」


 三喜雄は説明して、片山、と自分の名を紙に書いた。


「山の片側、ってことなんですかね、また調べておきます……名前は大抵、家族が意味と音のバランスを考えてつけると思いますよ」


 ヨーロッパ人の名前は、聖書や神話から取られたものが多い。カレンバウアーの名はもちろん、創世記に登場する、罪深い人類絶滅を目的とした水責め計画から逃れた、神に選ばれし男のものだ。


「片山さんの名前は? 3つの喜びと……」


 もうそこまでわかるのか。三喜雄は驚きつつ、自分の名を紙に書く。


「『雄』はオスの意味です、男性にしか使わない漢字です」


 カレンバウアーはああ、と驚きの声を上げる。


「性別で使い分けがあるんですね」

「厳密ではないんですけど一部使い分けます、ドイツ語に男性名詞と女性名詞がある感じと似てるというか……たとえばBlumeは女性名詞ですけど、漢字の『花』も女性の名に使う場合が圧倒的だと思います」


 日本では小学校で、自分の名の由来を親に尋ねてまとめるという課題を出すことが多い。三喜雄も4年生の頃に、両親に名前の意味を訊いた。


「俺、ほんとは3番目なんです……姉と俺の間に、生まれてくることができなかった子がいます」


 カレンバウアーは三喜雄の話に、ほんのわずかに表情を曇らせた。しまった、と思う。息子を亡くしているカレンバウアーに聞かせる話ではないと気づいたので、三喜雄はそれ以上話さなかった。

 しかしカレンバウアーは、それで? と三喜雄に続きを促す。まさかの反応に、戸惑った。


「えっ? あ、それで……母は俺を妊娠したってわかった時、また流産したらどうしようとかなり不安だったらしいです……無事に生まれて嬉しかったのと、2番目の子を忘れないように、この字を当てたと」


 三喜雄が慎重に話すと、カレンバウアーは感動を顔に浮かべた。


「素敵ですね、私は明日から社員の名前の由来を聞いていこうと思います」

「たぶん皆さん、いろんなエピソードをお持ちだと思いますよ」


 楽しんでもらえてよかった。三喜雄はほっとしたが、姉の名が一枝だと話すと、最初の子どもだから一がつくのはわかるけれど、どうして「一」を「かず」と読むのかとカレンバウアーから訊かれて、答えることができない。


「名前に使う時だけ、特別な読み方が発生する漢字って、いくつかあります……漢和辞典で調べたらわかりそうですけど」


 三喜雄も困ってしまったので、カレンバウアーは、暇な時でいいですと笑った。

 その後少し、カレンバウアーが書き取りをするのを見守って、正しい書き順を教えた。漢字混じりの文章を、彼が手書きする機会などほとんど無いだろうが、書いたら覚えやすいからと彼は練習を続ける。大した努力家だと、三喜雄は感心した。

 洗濯物を片づけてから、カレンバウアーの書き取りノートをチェックした三喜雄は、カレンバウアーの突然の宣言に驚かされた。


「一緒に暮らしているわけですから、これから片山さんのことは三喜雄と呼ぶことにしますね……片山さんも私のことはノアと呼んでください」


 拒否する理由は無いのだが、そんな親しげでいいのだろうかと思った。まあドイツにいた頃は、みんな自分を三喜雄と呼んだし、教官にも下の名前で呼べと言う人がいたけれど……。

 了承すると、カレンバウアーはにっこり笑った。やはり三喜雄は、こいつ楽しそうだからまあいいか、と結論を出してしまうのだった。


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