炊き立てのご飯で簡単に夕食を済ませると、少しだけピアノを使い、歌った。その頃には雨が降り始めて、家主が危惧した通りにベランダに面した窓をばらばらと打つようになった。
21時を回ったところで歌うのを止めて、先ほど受け取った逢坂の手紙の封を開いた。人懐っこい小型犬のような彼女らしい丸い字で、これまで隣人として世話になったことと、あの日助けてくれたことへの礼が丁寧に書かれている。
『こんな形で、きちんと挨拶もできずにお別れしなくてはならなかったことが悔やまれます。しかし今、片山さんの顔を見ると、あの朝のことを思い出しそうで怖いという気持ちも、少しあります』
逢坂はまだ火事のショックから立ち直れず、退院し実家に帰って以降、授業に出ていないようだった。前期試験も受けることができず、8月に特別に追試をしてもらう措置を受けているけれど、自信が無いと心情を吐露している。
三喜雄には、この若いヴァイオリニストにかける言葉がすぐに見つからない。三喜雄だって、ふとしたはずみにあの時のことがフラッシュバックして、立ちすくんだことがこれまでに数度あった。逢坂は明らかに、焼身自殺の巻き添えを食うというよりは、階下の住人が自分に悪意を持ち、「殺される」と感じていたことが、文章の端々から察された。
『死人に鞭打つようなことは書きたくないのですが、あの人のせいで日々の平穏を根こそぎ奪われたことが、どうしても許せないです。マンションの管理会社が、遺族に損害賠償を求める裁判を起こす準備をしていると知り、一緒に訴えたいと両親に話しました』
あの可愛らしい女性が、憤怒の夜叉になってしまったように思えて、三喜雄の胸が痛んだ。何とか乗り越え、この怒りをも糧にする強さを持って、演奏に戻ってほしい。
すぐに返事を書くつもりでいた三喜雄だが、これは考えて書かなくてはいけないと思った。自分はカレンバウアー邸に引っ越し、ぬくぬくと暮らしている。逢坂には申し訳ないが、平穏を取り戻しつつあるおかげで、この事件に対して、必要以上に拘泥するのは良くないという客観的な視点が持てるようになった。その辺りを、上手く伝えることができるだろうか。
風呂釜をしっかり掃除して以来、暑い日もなるべく浴槽に湯を張るようにしていた。のぼせそうなら止めておけばいいのに、ノアが浴槽に浸かりたがるので、さっぱりする入浴剤を買っている。ノアは日本風の生活に憧れのようなものを抱いている節があり、今は湯に浸かることにハマっているのだ。
三喜雄は小窓の外が雨で滲むのを見つめながら、ぬる目の湯の中で身体をほぐす。すると、ずずず、と低い地響きのような音が微かに聞こえた。雷が鳴り始めたらしい。
嫌だな、と思う。夜の雷は睡眠を妨げるので、嫌いだった。三喜雄は雷が強くなる前にリビングか自室に戻るべく、風呂から上がる。
髪を乾かして洗面室から出ると、ちょうどノアが帰ってきた。もう11時近いはずだ。
「お帰りなさい」
「ただいま、さすがにタクシーで帰ってきました、酷い雨です」
マンションの前までタクシーに着けてもらったらしいが、ノアのスーツの肩やズボンの裾が濡れていた。三喜雄は洗面室に戻り、タオルを出した。
ノアは服を軽く拭きながら、三喜雄に向かって微笑する。
「ありがとう……大丈夫ですよ」
「まだお風呂沸かしたばかりです、入ってください」
三喜雄の前の家の風呂には追い焚き機能が無かったが、この家の風呂にはもちろんある。しかし入浴剤の効能は時間が経つと薄れるので、ノアにそう伝えた。
ノアはすぐ入浴すべく、自室に戻る。三喜雄はリビングに行き、水を飲んでからソファに座り、きっちり閉められたカーテンの向こうで鳴る低い雷の音を聴いた。
いつもそこに置かれているハリネズミのぬいぐるみは、事故死したノアの一人息子の形見だった。彼の4歳の誕生日にノアが買ったものらしく、男の子がぬいぐるみを欲しがり父親が買い与えるなんて、と言う妻を無視して、息子と一緒に選んだという。
ここ最近ノアは、失ってしまった家族についてちらちらと三喜雄に話す。悲劇としか思えないが、どうもノアと妻のヒルダは互いの家と会社の利益のために結婚したらしく、夫婦として早くから破綻していたようだ。
ノアは息子のフェリックスのことは、目に入れても痛くないくらい可愛がっていた。しかしやはり、子どもの教育方針がヒルダと折り合わなかった。そんな中、フェリックスはノアがウィーンに出張した時に車に轢かれた。これは三喜雄の想像でしかないが、ノアはフェリックスの事故死を、妻の責任だと考えているような気がする。
逢坂に返事を書こうと思ったが、どうも頭の中がざわざわする。三喜雄はハリネズミの柔らかい棘を撫でながら、軽く目を閉じた。今夜は眠ってしまったほうが良さそうだった。