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7月 30

 ノアが風呂から出てくるまで情報番組を見ていた三喜雄は、家主におやすみの挨拶をしてから部屋に引き取った。少しノアに、逢坂からの手紙について話したい気もしたが、遅くまで仕事をしていた人に対して良くないと思い直した。

 布団に入り電気を消して、止まない雨の音を聴きながら眠った。雷は方向転換したのか、もう鳴らなかったのでほっとする。

 どれくらいの時間が経ったのかわからなかったが、どん! と大きな音がして目が覚めた。雨の音が寝入る前の倍の大きさになっている。三喜雄が頭を起こした瞬間、ぱっとベランダのほうが明るくなり、間を置かずにばりばりと雷が鳴った。驚いた三喜雄は鼻まで布団を引き上げ、目を閉じた。

 雷雲がこの辺りに居座ったのか、何度となく瞼の裏で稲光がちかちかした。光と音の間が無くなってきて、近い場所で雷が鳴っているとわかる。

 三喜雄は目を開けて窓のほうを見た。部屋に大きな窓があるのは基本的に気持ちいいのだが、こういう夜は少し困ると思った。カーテンの向こうで、ちらちらと雷光が瞬く。感覚的に嫌だなと思っていると、ふと固く閉ざしていた記憶の扉の閂が緩んだ。

 あの朝、まだ薄暗い窓の外で、ちらちら揺れていた不自然な光。カーテンを開けるとその白みがかったオレンジ色の光は、ベランダの下から這い上がってきていた。

 カーテンの閉まった窓が真っ白に輝き、板を強引にめくるような音がした。続いて轟音が鼓膜をつんざく。びりびりと窓が揺れ、三喜雄の声帯から勝手に叫び声が出た。

 ここにいたら危ない。早く逃げないと。

 三喜雄は咄嗟に跳ね起きた。雨の音が強過ぎてよく聞こえないけれど、遠くで非常ベルが鳴っている気がする。慌て過ぎてベッドから転がり落ち、右肩をしとどに打ってもう一度痛みに叫んだ。

 また窓の外が異様に明るくなり、雷が打ちつけるような音を立てた。早く逃げないといけないのに、恐ろしくて身体が動かない。三喜雄の心臓は焦りと恐怖でどくどく鳴り、息が上手く吸えない。どうしよう、このままだと死んでしまうかもしれない。

 その時、ドアがノックされた。三喜雄の身体が勝手にびくりと震え、返事ができない。すぐに扉は開いた。ノアが床にうずくまる三喜雄を見て驚くのがわかった。


「どうしましたか……!」


 驚いたノアが三喜雄を助け起こすべく、傍にかがんで脇の下に腕を入れてくる。逃げないと危ないと言おうとした三喜雄は、すかっと喉から息が抜けたことに気づき、頭の中が真っ白になった。まただ、また声が出ない。

 薄暗い部屋を、稲光がちらちらと明るくする中、ノアは三喜雄の異変を察したようだった。低いが優しい声で呼びかけてくる。


「三喜雄、落ち着いて……ただの雷です、しばらくしたら止みます」


 脇から背中に回ってきた腕に抱き止められ、三喜雄は安心感にへたへたとなった。しかし喉からはやはり、意味を成さない音しか出ない。


「……ああ、あ」

「落ち着いて、ゆっくり深呼吸して……家の中にいれば何も怖くないですよ」


 三喜雄は泣きそうになりながら、何度か呼吸を試みたが、心臓がだくだくと跳ねて息が吸えない。煙が回ってきて、一酸化炭素中毒になりかけているかもしれないと思うと、このままノアと座りこんでいるのは危険だと焦った。


「あ、逃げ……」


 三喜雄のかすれた声が辛うじてそう発音した。ノアがぎゅっと、三喜雄の上半身を胸の中に抱く。


「逃げなくても大丈夫ですよ、どこからも火は出てません、雨と雷だけです……大丈夫」


 優しく諭されて、三喜雄は頼りになる広い肩に額をつけた。この人が自分を守り、安全な場所に導いてくれると思いたい。

 背中をとんとんと軽く叩かれているうちに、少し心臓が落ち着いてきた。ふと、こんな真夜中に何をしているのだろうと、恐怖混じりの羞恥がざわざわと湧き上がってきた。


「さあ、寝ましょう」


 ノアが言った時、また窓の外が光り、どどんと雷がどこかに落ちたような音が響いた。三喜雄は思わず、身体を縮める。


「しばらく治まりそうにないですね、立てますか?」


 ノアは言いながら、三喜雄の上半身を抱えた。ほぼなすがままに三喜雄はふらふら立ち上がり、ノアに半分体重を預けたまま歩く。部屋の外には熱気が籠り、湿気が腕にまとわりついた。

 怖い。とにかく怖かった。火事ではないらしいことは理解できたけれど、やっぱり怖い。三喜雄は隣のノアの部屋に連れて行かれて、何も見えなかったが、涼しい中にほんのりとよく知るいい匂いがすることにほっとした。


「外が静かになるまでここにいましょうか、右にベッドがあるから、座って」


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