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7月 31

 言われるままに腰を下ろす。ほっとするやら恥ずかしいやらで、三喜雄は本格的に泣きたくなってきた。


「水を持ってきます、横になって少しだけ待ってて」


 窓の外が光り、ノアが出て行こうとするので不安になったが、三喜雄は黙って頷いた。こてんと上半身を布団の上に倒して視界を塞ぎ、リネンの匂いを吸い込んでいると、不安がやわらいでくる。

 開いたままのドアから、ノアが戻ってくる気配がした。


「三喜雄、水を少し飲んでください」


 言われて、窓のほうを見ないようにしながら、ゆっくりと上半身を起こす。すると、膝の上に柔らかいものが、ぽん、と2つ乗った。オオサンショウウオとハリネズミのぬいぐるみだと、手触りですぐにわかった。サンショウウオの頭を撫でた右手を取られ、冷たいペットボトルを握らされる。

 三喜雄は素直に、ペットボトルの蓋をくりりといわせて開けた。ゆっくりと、口の中に冷たい水を流し込む。美味しくて、勝手にほっと吐息が出た。


「じゃああなたの好きな動物たちを抱いて、ここで寝てください……壁のほうに行けば、少し安心ですか?」


 ノアはペットボトルを受け取り、座る三喜雄のほうに上半身を傾けながら言った。こうしている間にも、雷は窓の外で荒れ狂っている。部屋に戻りますと、どうしても言えなかった。

 情けなくて、今度こそ涙が溢れた。何やってんだ俺は、ガキか。もう、今すぐ消えたい。頬を伝う熱い水を、手の甲で拭った。

 すぐにノアは三喜雄が泣き出したことに気づいて、事務机らしきところからティッシュの箱を取り上げ、三喜雄に差し出す。


「泣かないで」

「俺……おかしいんでしょうか」


 不思議なことに、あれだけ何かがつっかえたようだった気道にすっと息が流れて、ちゃんと言葉が出た。

 ノアは、返事に少し迷ったようだった。


「何かがトリガーになって、あの日のことを思い出すんですね……仕方がないですよ、怖い思いをしたんだから」

「こんなことがずっと続いたら、俺」


 涙に遮られて、それ以上言葉が出なかった。ティッシュを取って、目と頬を拭いてはみたものの、恥ずかしさと不安と自分への苛立ちで、涙が止まらない。

 ノアは三喜雄の右に座って、大きな手でそっと頭を撫でる。優しい愛撫は、子どもを慰めるようだった。


「一度メンタルのクリニックに相談してみてもいいかもしれませんね……対処方法が見つかれば、不安もなくなります」


 三喜雄の口から嗚咽が洩れた。ずっとこんなことに、振り回され悩まされるのだろうか。これが本番の直前だったら、どうすればいい。

 もしかすると、元の隣家のヴァイオリニストも、同じような「症状」を抱えてしまっているのでは、と思った。


「三喜雄、今いろいろ考えても仕方がないですから、横になりましょう……あなたは明日休みだし、私も今夜頑張ったので明日はゆっくり行くと言ってきましたから、気兼ねしなくていいですよ」


 ノアはそう言って、ぬいぐるみと三喜雄をベッドの奥に寝かせるべく、布団をめくった。俺ここで寝るのかよと、一瞬理性的な自分が目を覚ましたが、疲れてしまってどこで寝ようがどうでもいい気分だった。三喜雄は壁に背中をくっつけるようにして横向きに寝転び、腕にサンショウウオとハリネズミを抱いた。


「……フェリックスも雷が嫌いでした」


 ノアは三喜雄の隣に横になって、布団を引き上げる。三喜雄とぬいぐるみたちを、柔らかく温かいものが包んだ。

 あの火事以来、いつも三喜雄を慰め包んでくれた匂いが、リネンや服にまとわされたものだけでなく、ノア自身のものであることに、三喜雄はようやく気づく。ゆっくりそれを鼻腔と肺に入れると、稲光も雷音も気にならなくなってきた。


「……ノアさん、ごめんなさい」


 三喜雄が小さく言うと、何も謝らなくていいです、とノアは静かに応じた。

 瞼が熱くて重い。三喜雄は目を閉じる。ふと、自分が魔王に連れ去られた小さな息子になったような、おかしな空想が湧いた。

 少年は魔王に気に入られたばかりに現世を離れなくてはならなくなり、常世で魔王の傍らに置かれ可愛がられているのだが、父親が恋しくて毎晩泣く。困った魔王は、少年が好きそうなぬいぐるみを与えて、機嫌を取ろうとしているのだ。

 でも少年は、少しずつ気づき始める。この人はお父さんじゃないのに、自分を大切にしてくれている。最初は傍にいると怖かったけれど、だいぶ慣れたかもしれない。

 三喜雄の意識がとろりと身体の外に溶け出す。

 それに、この人の匂いが、何となく好きだ。



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