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7月 32

「片山」


 松本咲真の声で、三喜雄は我に返る。


「疲れた? まあなかなか厳しいレッスンやったけど」

「あ……ごめん、東京着いた途端にあれで」


 全く別のことを考えていたことも、東京にやってきた松本をすぐに国見のところへ連れて行き、ピアノ合わせをしたことも申し訳なかった。松本は笑った。


「ああ、国見先生が暑さに負けんと元気にしてはるの見たら、安心したわ」


 松本とのアンサンブルを本番前に国見に聴かせるのは初めてではないので、松本も国見のやり方には慣れている。


「何? 『魔王』がしっくり来てへんのか?」


 松本は冗談ばかり言っている男だが、根は真面目なので、録音を明後日に控えて、三喜雄のコンディションを気にしてくれていた。それだけに、全然関係ないことに気を取られていた自分が、恥ずかしくなる。


「まあ、それもあるんだけど……」


 松本の関西人らしい人懐っこさは、学生時代から何げに三喜雄の癒しでもある。でなければ、アンサンブルユニットを10年も続けて来られなかっただろう。

 それでつい、現在置かれている状況を報告してしまう。


「同居人が俺を甘やかしてきてたまに困っています」

「何それ、BLのタイトルか? カレンバウアーさんのこと?」

「松本ってBL読むんだ」

「妹がたまに買ってくるから、暇な時にぱらぱらすんねん」


 いけない、既に脱線しつつある。三喜雄は軌道修正し、ノアと知り合って以降、自分がスポイルされている気がしてならないと松本に話した。


「ごく稀に火事の時のことがリフレインすることがあって、怖くなったりするから迷惑かけてるのもあるんだけど」


 それを聞いた松本は、わずかに眉間に皺を寄せた。


「それ、カレンバウアーさんとどうこう以前に、心療内科行ったほうがええんちゃうか?」


 入院中に世話になった耳鼻咽喉科医に紹介された、品川の喉の専門医のところへ、昨日行ったばかりだった。その医師も、喉には何の異常も無いので、メンタルのケアを考えてみようと言った。


「うん……ノアさんと一緒の時に発作みたいになることがたまたま続いてて」

「カレンバウアーさんも災難やな」


 関西人の松本のこういう物言いには、非難の意味合いがほぼ含まれないことを知っているものの、そう言われると返す言葉が無い。


「一昨日は心配された挙句に、その……添い寝されてしまいまして……」


 三喜雄が小声で言うと、松本は目を丸くした。


「愛されてるやん」

「やっぱりそうなんだろか」


 松本はうーん、と言いながら首をひねった。


「マジレスしたら片山ゲイモテするもんな、でもカレンバウアーさんってゲイなん?」

「もう連絡とってなさそうではあるけど、妻子持ちなんだけどな」


 あ、そうなんや、と呟いた松本は、ノアの事情を深追いしなかった。


「ま、片山が嫌ちゃうかったらええやん」

「親切にしてくれるのはむしろありがたいよ、でも立場のある人だし……俺みたいなしょぼい歌手に肩入れしてどうこうって、もし変な噂が立ったら」


 三喜雄は極めて真面目に話しているのに、松本はぷっと笑った。


「そんなん、片山を自宅に住まわせてる時点で覚悟してはるやろ……片山が『スポンサーに囲われてる若手バリトン』とか言われたら嫌かどうかって話」


 三喜雄は少し考える。火事で焼け出されたからとはいえ、格安で上等な部屋を用意してもらい、新しいタキシードをつくってもらい、音楽事務所も彼を頼りにしている節があり……。


「ああ、微妙に事実だから仕方ないかも」

「それは、囲われてると認めるってことか?」

「そうならないよう気をつけてたつもりなんだ、でも今マイルドに戦慄したよ……親に怒られそう」


 松本は手を叩いて爆笑した。


「そらご両親心配しはるわ、息子が外国のセレブ男性の囲い者になっとったら」


 三喜雄は思わず額に手をやった。松本は学生時代、札幌の三喜雄の実家に2回遊びに来ていて、3月に札幌でコンサートをした時も両親と会っている。それだけに、彼の言葉には現実味がある。


「一応、カレンバウアーさんの家にしばらく世話になるとは伝えてるけど……」

「びっくりしはったんと違う?」

「いや、奇特な人がいるとは思ってるだろうけど、びっくりとか困ったりはしてない」


 松本はまた笑う。


「のんびりしてはるわ、北海道感あるなぁ……うちの親やったら、見返りに何か要求されてへんか! とか言いそう」


 三喜雄は思わず背筋を伸ばした。


「見返りに何かって何だ、それは松本のご両親じゃなくて松本の考えだよな?」

「まあ、どっちもかな」


 松本がしれっと答えるのを聞き、三喜雄は髪を掻きむしりたくなった。


「あの人とはそんな関係じゃないぞ」

「わかってるがな……でも何か常に、片山の歌を真面目に聴いてる人が傍に居てるんやなとは思う」


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