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7月 33

 ノアは気が向けば、三喜雄の練習に伴奏してつき合ってくれる。遠慮して弾いているが、彼が職業音楽家を目指した身であることは、譜読みの速さや反応の良さから察された。それに彼の個性として、音がいつも柔らかい。

 伴奏が悪いのかもしれないですけど、と前置きしつつ、ノアは三喜雄の歌の気になるところを、たまに指摘してくれる。特に言葉に関するものは、ネイティブの意見がとても有り難い。

 それを話すと、松本は感心を満面に表した。


「へぇ……そらええ練習相手やわ」

「そんなこんなだろ、居心地良くてスポイルされてるんですよ」


 松本は可笑しそうだったが、ふと真面目な声音になる。


「俺はそれが片山の歌に悪影響を与えてるとは思わへんで、意に染まん引っ越しでバタバタしてた割には安定してるなと思ったし」


 三喜雄は松本の言葉に、そう? と返して彼の顔を見る。松本はにっこり笑った。


「もうちょい練習できそうやな、俺のリハ終わったら、ちょっと遅いけど飲みに行かへんか?」


 松本がピアノの椅子に座り直した。練習室を出るまであと15分あった。松本は明日ひとつ本番があり、そのリハーサルが、これからこの近所のホールでおこなわれる。


「これからリハする相手とは飲まないのか」

「その人とは明日打ち上げするやん、まあお酒飲めへん人なんやけど」


 三喜雄がCMの録音をするのは明後日だ。松本が東京に来るタイミングに合わせたのだったが、彼の本番が続くので申し訳なかった。

 そう言うと松本は、楽譜をめくりながらいやいや、と応じた。


「本番続くんは当たり前やし、片山は2曲だけやし、移動考えて明日のコンサートに擦り合わせてくれて助かってんで」


 そんな言葉に、プロのアンサンブル・ピアニストとしての松本の仕事ぶりを、あらためて垣間見る気がした。彼はソリストからの指名も増えて、日本の若手の伴奏者としては、今や3本の指に入るだろう。海外への足がかりが掴めれば、濱涼子のようなグローバルな活躍も夢ではない。

 国見から指摘された幾つかの改善すべき点をチェックして、貸し練習室を出た。ホールに向かう松本と一旦別れた三喜雄は、家に戻るのもばたばたするので、どこで2時間半ほどを潰すか思案する。とにかく暑いので、あまり動かないほうがいい。

 本屋に行って、ドマスでお茶しよう。結局は学生時代とあまり変わらない選択をした。

 しかし三喜雄にとって、今やドーナツマスターは「かつてのバイト先」ではない。自分はあの会社の広告塔の1人で、自分の出演するコンサートに、金を出してくれるスポンサーなのだ(秋以降に三喜雄が出演する複数のコンサートに、ドマスが協賛したいと申し出ていた)。

 そう考えると、三喜雄を取り囲む世界は確実に変化しつつあった。だからあの自分に甘いドイツ人の許に居ると、庇護を受けることができて、好都合なのだ。これからどんな荒波に遭遇するか、全く予想がつかないから。

 ノアへの見返りとして三喜雄は、彼が自分の中に探している、失った息子のように振る舞うとぼんやり決めていた。

 添い寝してくれた夜が明けそうになった頃、三喜雄は一度目を覚まして、隣にノアの姿があることに驚き叫びそうになった。しかし、彼がよく眠っているのは自分のせいだと思い出し、落ち着きを取り戻した。

 こちらを向いて目を閉じるノアを、ハンサムだなぁと思いながら見ていた三喜雄は、彼の右手が自分の左腕のすぐ傍に置かれていることに気づいた。怯える三喜雄に触れようとして、遠慮したのかもしれなかった。

 三喜雄は左腕に抱いていたハリネズミのぬいぐるみを、ノアの右手に触れる場所に置いた。しばらくするとノアは、ハリネズミを大きな手の下敷きにし、眠ったまま愛おしそうに軽く撫でた。それを見て、三喜雄は満足した。

 ノアからは、フェリックスが車にはねられ死んだ時の話を、詳しくは聞いていない。ノアの傷を抉りたくないので、こちらから委細を尋ねようと思わなかった。

 ただ、ノアが無理に息子の記憶の全てを締め出そうとするなら、それはノアにとっても、フェリックスにとっても不幸だ。だから三喜雄は、息子を思い起こさせる存在として、適度に距離を保ちノアに寄り添っておく。

 自分のやり方が正しいかどうかは、わからない。それに、これ以上のことはできなかった。

 三喜雄は基本的に、他人から距離をやたらと詰められるのは好きではないし、自分がされたら嫌なことは人にするなという祖父母からの教えに従い、他人にも必要以上に踏みこまないようにしている。でもそうしてきたおかげで、比較的他人から好かれる人生を送ってきた。だからきっと、これでいいのだ。

 書店に入ると、まず涼しくてほっとした。三喜雄は新刊の文庫本のコーナーを目指した。



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