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7月 34

 フォーゲルベッカーの新作チョコレート「きな粉」のCM録音は、目黒の音楽スタジオで、地味に執り行われた。ドマスとのコラボCMの時の4分の1の人数しか現場に来ず、三喜雄は拍子抜けし、松本はややがっかりした様子である。

 ノア・カレンバウアーと一緒にスタジオにやってきたのは、彼の秘書の武藤と、マーケティング部の若い女性社員だった。井手いでと名乗った彼女と、三喜雄は名刺を交換した。

 井手尚子なおこによると、今回の録音はあくまでもフォーゲルベッカー本社の企画で、日本法人は、録音と撮影を請け負う形だということだった。


「でも今日の録音は、ドマスさんより求めてくる音楽のクオリティがおそらく高いですから、片山さんが歌いにくいと感じられた場合は、何でも遠慮なくおっしゃってください」


 井手はきびきびと説明した。BGMでもいい加減な演奏は許さないと宣告されて、三喜雄は緊張感を覚えた。

 松本は、ノアたちに丁寧に挨拶して名刺を交換している。会社のスタッフは3人だけだが、ミキシングのスタッフの他に、ドマスの時よりも立派なカメラを持った男女が参加していた。写真と動画を撮るという。

 機材が準備されるのを見ていた松本は、この間の濱と似たような反応をした。


「しまった、動画撮るかもとか言うてたよな! 普通過ぎるカッコで来てしもた」


 それを聞いていたノアは微笑し、構わないですよ、とピアニストに言う。


「これをタキシードで撮ったら大げさですし、日本の若い音楽家の普段の姿は、おそらくあちらで興味を引きますから」

「そうなんですか? 騒いですみません」


 するとカメラマンがこちらに来て、三喜雄と松本に少しだけインタビューをしたいと言ってきた。彼はノアの許可を得て、カメラを回しながら、三喜雄と松本が学生時代からのつき合いであることについて、訊いた。


「はい、私たちは2人とも、別の大学……しかも同じように、公立の教育大学を卒業してから、芸大の大学院に入りました」


 松本も話を振られて、案外滑らかに話し始める。


「私は関西で片山は北海道出身です、首都圏育ちで大学から芸大にいる人と一緒になって、やっぱりレベルの差を感じましたし、微妙にアウェーやなと思いました」


 高等教育のシステムが日本とドイツではかなり違うので、果たしてあちらで通じるのか三喜雄は心配になったが、まあいいだろうと話を続ける。


「それで、他大学から芸大の院に来て、何となくアウェー感を持つ人が集まって、一緒に活動するようになりました……松本と私はそのコアですね」


 松本の口調が昔語りの懐かしさを帯びた。


「院生時代、私はアンサンブル・ピアニストになるかどうか決めてませんでしたけど、みんなの伴奏ばっかりしてましたね……結果的にそれが今の素地になったかなと」


 ノアが自分たちの話を興味深そうに聞いていることに気づき、こんな感じでいいのだろうと三喜雄は少しほっとする。


「片山さんと松本さんのアンサンブルの名前が『学歴ランドリーズ』、学歴を洗っている人という意味だと伺いましたけど、これは学歴ロンダリングをしているという自虐ですか?」


 カメラマンに訊かれて、思わず2人で笑った。


「これ、誤解されがちなんですが、私は少なくとも芸大卒芸大院の人に、おまえは学歴ロンダリングしてるって面と向かって言われたことは無いです」


 三喜雄が説明すると、松本がそれを引き継ぐ。


「大元は、私の大学の同期が口にした言葉なんですよ……コンサートの案内を送ったら、そいつに未だに謝られます」


 松本は、大学を卒業して民間企業に就職した友人から、学歴ロンダリングまでするのだから、何が何でもピアノで食って行けと言われた。それを出会ったばかりの三喜雄に、同期から侮辱されたと訴えて、焼き鳥屋でキレ散らかしたのだ。

 三喜雄はその時のことを思い出し、笑った。


「言葉はまあちょっと良くなかったんだろうけど、どう考えても、これから俺の分も頑張れよって激励だよな」

「今思たら、ほんま俺心狭いわ」


 カメラマンたちと、ノアまで笑う。松本は、自分たちは心が狭いので、字数が許すなら、最終学歴の前に卒業大学名をプロフィールに必ず入れるのだとつけ足し、笑いのダメ押しをした。


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