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7月 35

 場が和んだところで、グランドピアノの置かれた部屋に向かった。この間と同様、隣接する部屋がミキシングルームだ。三喜雄はカメラに向かって手を振り、松本と防音室に入る。


「音楽番組のドキュメンタリーってこんな風に作るんやな、まさか生きてる間にこんな撮影されると思わんかった……」


 松本は目を細めてしみじみと言う。三喜雄は小さく笑った。


「流れるのは動画サイトだけだよ、ドキュメンタリーとかちょっと大げさ」

「いやいや、コンディトライ・フォーゲルベッカーの公式動画やろ? 自撮りで上げる動画とは違うで」


 ごちゃごちゃ言いながら、互いに定位置にスタンバイした。少し音出しの時間をくれるらしいので、三喜雄は譜面台の高さを合わせて、譜めくりが少なくていいように調整した。行くで、という松本の軽い合図で、3連符の前奏が始まる。三喜雄は腰の下に空気を入れた。


「『落葉松の秋の雨に、私の心は濡れる』……」  


 カメラは、ガラスで隔てられたミキシングルームからこちらに向けられている。1番を歌い終わると、録音はOKだと合図が出て、ノアも親指を立てていた。


「音量はいいみたい」

「『魔王』もちょっとやっとく?」


 一昨日、国見から注文が出た後半部分から始める。まだ自分の中ではっきりとした答えは出ていないが、今表現できることをするだけだった。三喜雄は息を吸った。


「『私はおまえが大好きだ、おまえの美しい姿に胸が熱くなる』」


 少年に甘言を与え続けてきた魔王は、ここで豹変して少年を脅し、正体をむき出しにするのだ。


「『おまえにそのつもりが無くても、力尽くで連れて行くぞ!』」


 ここでキャラクターを切り替えるのがいつも微妙に遅れる。国見からもノアからも指摘されていた。伴奏がフォルテになった瞬間に集中した。


「『お父さん、お父さん! 魔王が僕を捕らえてしまう!』」


 少年の叫びを聞いてから伴奏が徐々に静まる。語り手が話し出すところは、あまり感情を入れ過ぎずに、講談という国見の言葉を意識した。


「『父親は恐怖を覚えて馬を駆る』……」


 三喜雄は松本をちらっと振り返った。


「うん、後はいいと思う」


 手を止めた松本は、確認するように言う。


「一昨日よりちょっと速い?」

「変にためないほうがいいかなと思って」


 それは、一昨日合わせた録音を、ノアに聴かせて得たアドバイスでもあった。テンポを揺らすと、次の歌詞を無意識に強調してしまうからだった。

 ノアと武藤がミキシングルームから出たので、何か言いたいのだろうと察した三喜雄は、部屋の重い扉を開けた。

 いいと思います、とノアは微笑してから、松本のほうを見た。


「前奏の左手のテーマは硬く弾いたほうがいいと思います、たまに右手の連符に消されてしまう」


 松本は頷き、その部分をすぐに弾いた。


「ペダル強く踏まへんほうがいいですね」

「はい、これは恐怖のテーマなので、もやっとしないほうがいいでしょう」

「了解です」


 松本はあっさりと修正したが、シューベルトはこの曲に限らず伴奏が難しいのだ。「落葉松」もずっと右手で三連符を奏で続ける曲なので、2曲とはいえピアニストにはなかなかハードな仕事だと三喜雄は感じている。

 松本に伴奏を正式に依頼してあまり時間が無かったことを思うと、集中して練習してくれただろうから、三喜雄としては彼に感謝の気持ちしか無い。

 ノアは三喜雄の方を見た。


「Erlkӧnigが何か、三喜雄は理解してますね?」


 ノアが何を言いたいのか一瞬わからなかったが、すぐにぴんと来た。


「ハンノキ……の、精霊ですよね?」

「そうです、夜の森で人間を惑わす、木の精霊の王です……日本語の『魔王』だと、地獄の王みたいなので、ちょっと印象が違いますね」


 へぇ、と松本が小さく、感心したような声を上げた。三喜雄も昔は解釈を曖昧なままにしていたので、ドイツでこの曲を練習した時に、何を歌ってるんだと指摘されたことがあった。


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