ノアが確かめるように訊いてくる。
「ハンノキは北海道にありますか?」
「はい、東京よりはたくさん見かけます」
三喜雄が答えると、ノアは2度頷いた。
「この間三喜雄は、自分の知る感情をあまり歌に落とし込まないほうがいいかもと話してましたね」
「はい、『落葉松』はその方向で歌ってるつもりです」
「三喜雄はハンノキも知っているんですから、『魔王』もそういうアプローチがいいかもしれません……初めて2曲続けて聴いて、今思いました」
なるほど、と思った。ただ、落葉松は哀しみを抱えた人をただ黙って見つめていると解釈しやすかったが、一刻を争い森を通る父子に悪意を持って近づくハンノキは、なかなか三喜雄に距離を置かせてくれない。
「……今の歌だと、どっちも肉感的過ぎますかね」
「それはいいんですよ、ただどちらの曲の題名も木そのものであって」
そこでノアは言葉を切り、考える顔になった。
「ちょっと上手く日本語が出てこないんだけど……」
それまで黙って会話を聞いていた武藤が、そっと上司を手助けした。
「『落葉松と私』とか『父子を惑わすハンノキの王』ではないので、人間目線のストーリーとして100パーセント解釈してしまうと、ある種絶対者的な『木』の存在感が薄くなる……」
松本が、ああ、と呟く。三喜雄も、武藤が「木」を大切にすべきだと言いたいのはわかった。
雨に濡れた落葉松の姿、あるいは深い森のハンノキが持つ伝説から詩人はインスピレーションを得ている。そして、詩に感銘を受けた作曲家が、短時間で曲を書いたという共通のエピソードを持つこの2曲は、当然ながら歌詞が強い。詩の主人公が人ではなく木であることを意識しないと、逆に作曲家のパッションが伝わらないかもしれない。
ノアは微笑した。
「武藤さんありがとう、そういうことです……今こんな話をして、逆に混乱させたかもしれませんね」
確かにちょっと意地が悪いと、三喜雄はノアに対して思った。本番直前にこんな話を吹っかけてくるのは、自分と松本に期待してくれている証であると同時に、自分たちを試したい気持ちがあるからに違いなかった。
ノアと武藤が部屋から出て行くと、松本はやや楽しげに言った。
「おもろいこと言う人やな、元ピアニストだけあって手強いわ……あの秘書の人も音楽しはるんか?」
「武藤さんは文学を勉強してたって聞いた、ゲーテとか原語で読んでそう……」
かなんな、と笑いながら松本はピアノの椅子に戻る。関西人がかなん、つまり敵わないとか困ったとか言う時は、面白がっている場合も多いので、彼がやる気を刺激されているのを三喜雄は感じた。
ノアが口にしたことは、今から音楽を変えることを求める「ダメ出し」ではない。松本もその辺りは理解している様子だ。
「この2曲、同時に発表するし、ちょっとプログラムとして意識してもええんかもな」
三喜雄は「落葉松」の楽譜を譜面台の手前に戻す。
「プログラム? 演奏会の大テーマ的な?」
「そう、片山の
三喜雄は松本の発想にも感心した。
「……それ面白いな、ソロコンそんな感じにしようかな」
そして、彼と顔を見合わせて笑った。
「よっしゃ、木を歌おう」
「よしよし、やりましょか」
互いに集中し、室内がしんとした。外からの音が一切入らない無の箱の中から、全力で何かを発信するのは、ホールで歌うのと同じだ。
人のいとなみだけではなく、自然の息吹のようなものを。前奏が三喜雄の思いに呼応するように、さっきよりも雄大な空気を纏った。身体の中にすっと空気が入り、三喜雄は直感的に、歌えると思った。