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8月 1

 秋以降に東京で幾つかの仕事を抱えている身としては、あまり北海道に長い期間居座るのも良くない気がしてきたので、三喜雄は帰省を少し短縮することにした。ノアが会社の盆休みにドイツに帰るので、三喜雄もそれに合わせて飛行機を取った。




 五反田の耳鼻咽喉科の後藤ごとう医師は、三喜雄がしばし東京を離れると知り、カウンセリングのような時間を持ってくれた。難しい2曲の歌曲を神経を使って録音したことが、特に喉を疲弊させたということは無かったが、後藤は強い雷雨があった夜の三喜雄の「発作」が気になったらしかった。

 さすがに朝までノアに添い寝させたことまでは話せなかったが、三喜雄は極力詳しく、あの夜の状況を話した。振り返って話す時に恐怖がぶり返すのは、以前よりましになっていると気づいた。


「確認したいんですが、いつも声が出なくなる時に、たまたまカレンバウアーさんが片山さんの傍にいらっしゃった?」


 後藤はキーボードを叩きながら、三喜雄を見る。後輩に変人呼ばわりされていたが、丁寧で親切な先生である。


「はい、火事以降カレンバウアーさんに一番お世話になっていて、一緒に居る時間が増えたからだと思います」

「それで、怖くて涙が止まらなくてどうしょうもなくなって、病院に飛びこんだり救急車を呼んだりしたことは無い?」

「無いです、しばらく経つと静まって……」


 三喜雄はいつもノアに慰められるうちに、気持ちを鎮めていることに気づいた。勝手に気恥ずかしくなり、手許に視線を落とす。


「……カレンバウアーさんにはほんとに迷惑をかけていて」

「カレンバウアーさんが片山さんへの対応を、迷惑と感じてらっしゃるかどうかは、私には判断しかねますけど」


 後藤はかちゃかちゃという音を止めずに話す。


「夏休みに片山さんがカレンバウアーさんと離れている時に、何かのきっかけで喉に変調が起こるのが心配といえば心配ですね」


 そうだった。これまではいつもノアが寄り添ってくれたけれど、これから3週間、彼と顔を合わせないことになる。その間に本番が1回あると思うと、心配になってきた。

 三喜雄の表情に不安がありありと浮かんだからか、後藤は対策を提案してきた。


「独りで乗り越えられると、大丈夫だという自信に繋がりますけど、カレンバウアーさんをすぐに思い出せるものを持ってたら、安心じゃないですか?」


 すぐに思い出せるもの。携帯できるもののほうがいいだろうか。三喜雄は考え始めたが、新たな不安がぽっと浮かんだ。


「先生、こういうのって、依存じゃないんですか……?」


 三喜雄の問いに、後藤はキーボードを叩く手を止めた。


「依存というのは、やめたくてもやめられない状態を指します……今片山さんはトラウマになりかけている体験を心の中で薄めようとしているわけですから、カレンバウアーさんにご自分が過剰に寄りかかっているかどうかは、それが治まってから考えてもいいと思いますよ」


 もっともである。三喜雄は、はい、と素直に応じた。後藤は探るように訊いてくる。


「人は誰かに依存するべきではないと思いますか?」

「相手に迷惑をかけるレベルになるのは、いけないと思います」

「今までに誰かから、寄りかかってくるなと言われたことがあるんですか?」


 三喜雄は答えに詰まった。寄りかかったのではない。寄りかかられて、きつい思いをした。


「……昔交際していた女性が、今思えば対人依存というか、人との距離感を上手く測れない感じの人で……振り回されたので、あんな風になりたくなくて」


 なるほど、と後藤は応じたが、微かに口許を緩めていた。


「片山さんはそんな風にはならないでしょう? 他人に迷惑をかけたくないと思うあまりに、ありそうにないことまで心配しているんだから」


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