ありそうにないだろうか。三喜雄はあまり納得できない。後藤は椅子を動かして、三喜雄に真っ直ぐ向き直る。
「むしろ片山さんは、割と独りで何でも片づけようとする人だとお見受けします……復調するまで、カレンバウアーさんに甘えたらいいんですよ」
病気と思われるレベルでないなら、人に寄りかかるのは許されるらしい。ならば自分は、結果的にあの時、彼女に冷たく当たり過ぎたのではないのか。
三喜雄は、留学中のあまり楽しくない記憶に思いを致さざるを得ない。自分を試すような真似をしたのは彼女だし、数人の友人からも、あの女はやめておけとやんわり忠告された。要するに彼女はそういう人間だった、のだろうけれど。
後藤医師自身もカウンセリングの勉強を少ししているらしいが、より心理的に辛い状況になってしまった時のためにと、彼が信頼を置いているという心療内科のパンフレットを手渡してくれた。
「アルコール中毒になりかけて喉を傷めた歌い手を3人ほど、彼女とタッグを組んで、舞台に復帰できるまでに治しました」
秋葉原で開業したばかりだが、優秀な心療内科医だと後藤は話す。
「片山さんがそこまで躓くとは思いませんが、基本的に音楽家は孤独ですし、自覚以上に繊細です……自分の気力を過信しないで、たまには自分を甘やかしてください」
三喜雄は2つ折りのパンフレットを見つめ、まさか自分が心療内科を紹介される事態に陥るとは思わず、やはり少し気持ちが下がった。
「ハンカチ、ですか?」
夕飯の片づけを済ませた後、三喜雄が要求したものに対して、ノアは目を丸くした。
「私のハンカチを持って帰るんですか?」
そう言われると恥ずかしくて、三喜雄は後藤医師の助言に従ったことを後悔した。
「……無理ならいいです、忘れてください」
「無理じゃないですよ、この間のハンカチがいいですかね」
ノアは、三喜雄がこの家に引っ越してきた時に返した、クリーム色のハンカチのことを言っているようだった。アイロン掛けされたそれを見て、彼は随分と恐縮したのだ。
「それは、ハンカチを……お守り? そんな感じにしてくれるということ?」
問われて三喜雄は、頷く。いろいろ考えた結果、どうも自分はノアが身につけているものの匂いに癒されているようだと思ったのだった。ハンカチならいつも持ち歩けるし、他人が見ても不審に思わない。
「えっと、耳鼻科の先生がですね、俺の喉の調子がおかしくなった時に、ノアさんといたら落ち着くみたいだって話したら、何かノアさんを思い出せるものを持っていればいいんじゃないかって」
三喜雄のもたもたした説明を聞いたノアは、何やら微妙に嬉しげな顔になった。
「なるほど、わかりました……私も三喜雄が帰省している間のことがちょっと心配だったので、お医者様から提案があって安心しました」
ハンカチは明日、三喜雄が札幌に発つ時に受け取ることにした。ノアは明後日、ドイツに帰る予定だ。ドイツにお盆休みは無いが、フォーゲルベッカー日本法人の社員の夏季休暇に、毎年ノアが合わせているらしい。
「ハンカチだけでいいですか?」
「はい?」
「ププも連れて帰りますか?」
ププとは、ハリネズミのぬいぐるみの名だった。フェリックスがそう呼んでいたという。三喜雄は思わず言った。
「駄目ですよ、あの子はノアさんが連れて行ってあげないと」
「三喜雄にはジローがいましたね」
次郎とは三喜雄のサンショウウオのぬいぐるみで、松本との録音が済んだ後に今更名づけられた。
松本は自分が持っているオオサンショウウオのぬいぐるみに「太郎」と名づけているので、それよりひと回り小さな三喜雄のは弟分などと言って「次郎」になった。武藤と井手は苦笑していたが、昔日本の家庭では長男に太郎、2番目の男子に次郎と名づけたという話にノアが興味を示して、ひとしきり盛り上がったのだった。