話はまとまり、三喜雄は留守中にガーベラに水をやる装置を作る準備をする。2リットルのペットボトルからチューブを引き、少しずつ水が植木鉢の土に染み込むようにするのだ。しばらく日に当てることができないが、水を腐らせないためにも、それは仕方なかった。
「10日分でいいですよ、戻ったら私が面倒を見ます」
ノアが言ってくれたので、安心した。ガーベラは丈夫な植物だが、夏の帰省の時はいつも少し心配だからだ。
「ありがとうございます、助かります」
「故郷で英気を養ってきてください……私はベルリンにいる間に、三喜雄と松本さんの演奏がちゃんとしたCMになるよう、本社の広報のお尻を叩きます」
笑顔になるノアを見て、一緒に帰れたらいいのにと、ちらっと思った。
三喜雄の東京の母校にはアーカイブがあって、卒業生であるノアの祖母、
アーカイブの担当者は、倉本七恵がベルリンの劇場でデビューし活躍した後、フォーゲルベッカーの創業者一族に嫁し、4人の子に恵まれた話に強い興味を示した。七恵の孫に当たるノアが直接来室してくれるなら、彼女の学籍簿や現役時代の成績表の原本といったプライベートな資料も、閲覧が可能だという。
大学は夏休みに入っているので、9月の中旬以降にアーカイブを訪問すればいいだろう。ノアは函館で、祖母について調べている研究者にも会うつもりでいるが、いつ行くつもりなのだろうか。今なら良いタイミングだと思ったのだが。
三喜雄は過保護なノアに羽田空港まで送ってもらい、保安検査場の前でハグされてから(人に見られて少し恥ずかしかった)、新千歳空港に向かう満席の飛行機に乗った。ノアとしばし離れることに軽い喪失感のようなものを覚えつつも、故郷に戻ることができるのは、やはり全身でほっとしてしまう。
快速エアポートでJR札幌に行き、地下鉄に乗り換える。暑さは東京よりかなりましに思えた。楽譜とスーツとお土産の入ったキャリーケースを転がしながら自宅に到着すると、母がおかえり、とごくごく普通に出迎えてくれた。家の匂いが懐かしい。
「三喜雄が歌うのをネットで見れたって、叔父さんや叔母さんが喜んでたよ」
そう言われて、ゴールデンウィークに戻った時は、ドマスのCMの話にまだ箝口令が敷かれていたと思い出す。
「こないだ帰ってきた時には、実は大体あんな感じって決まってたんだけど」
三喜雄はスニーカーを脱ぎ、キャリーケースと鞄を上がり框に置いた。母は実はそんなことより、息子が現在どんな生活を送っているのかを気にしていた。
「チョコレート屋さんの社長さんのマンションに下宿するのは、慣れた?」
「うん、良くしてもらって申し訳ないくらい」
「新しい部屋、見つかりそう?」
訊かれた三喜雄は、カレンバウアー邸はあくまでも仮住まいだということを、すっかり失念していた自分に気づく。
「うーん、9月になったらもしかしたら……」
この帰省から戻り、不動産屋に声をかければ、歌ってもいい部屋が見つかる可能性はあった。しかし三喜雄は、炊いた白ご飯を美味しそうに食べたり、朝沸かして冷やしておいた麦茶を風呂上がりに飲みながら、ぽやんと座っていたりするノアの姿を思い浮かべると、あまり出て行く気になれない。彼の秘書の武藤からは、自宅に誰かが居ることを上司が楽しんでいるようだと聞かされていた。