三喜雄は荷物を2階の自室に運んだ。あのマンションに長居するのは非常識だろう。それこそ、おかしな噂が立ちかねない。……しかし。
ふと我に返り、メゾン・ミューズの瀧とノアに、無事自宅に着いたことを連絡する。ついでに塚山天音にも、札幌に戻ったと伝えておいた。彼は三喜雄の帰省中に自分も実家に戻ってきたら、何故かいつも札幌市内で会いたがるからだ。
松本が上京してきた日の前夜に開催された、塚山のソロリサイタルは、ホールの300強の席を全て埋める盛況ぶりだった。ホールで知人にほとんど会わなかったので、三喜雄は本当に感心した。塚山は、自分の友人知人やその他の伝手で同業者ばかり呼ばずとも、チケットを広く一般ファンに売ることができる歌手になっているのだ。
相変わらず楽しそうに歌ってるなという印象だったが、プログラムの後半に聴いた数曲の日本歌曲が、予想外に良かった。塚山が帰ってくるなら、直接伝えようと思う。
今日はもう何もしないと決めていた。明日は、藤巻陽一郎に歌を聴いてもらうことになっている。三喜雄はキャリーケースを開き、両親と姉一家、それに藤巻のために買った、フォーゲルベッカーのアソートギフトを出す。フォーゲルベッカーのチョコレートは、まだ道内で買うことができないので、土産は東京の有名な菓子よりそちらの方がいいと姉から言われたのだった。
階下に行き、三喜雄はチョコレートの箱をひとつ、仏壇の前に置いた。目の前には、母方の祖父母の位牌が並ぶ。蝋燭に火をつけ、線香を用意した。三喜雄が鈴を鳴らして手を合わせていると、母が茶を用意してくれていた。
「藤巻先生とこにはいつ行くの?」
「まず明日」
三喜雄が答えると、母はくすりと笑う。
「高校生の時と変わらないわねぇ」
大学や大学院で世話になった先生ならともかく、個人でついている先生の許に、留学中のブランクがあるとはいえ、16年も通い続ける者もなかなかいないかもしれない。ドマスの開発部の深田は、おそらく今も、最初に個人で習い始めたつくば市の先生のところに行っているはずだが。
「そういや親父は? まだ仕事なの?」
「今日から休み、今日は会社の人とゴルフ」
父の定年も近い。姉一家が近所に暮らしているし、父の年金も少なくは無さそうなので三喜雄が心配することは無いのだが、息子がふらふら歌って稼いでいることを、両親がどう思っているのかが最近気になる。
「ところであんた今夜何食べたい? とりあえずオムライス?」
母に訊かれて三喜雄は苦笑する。オムライスは好きだ。でもたぶん、母が認識しているほどではない。
「うん、それか魚がいい……東京ってマジ魚美味しくないし」
「それいっつも言ってる、お父さんも東京に出張に行くたびに言ってたけど……高い店行ったら美味しいんでしょ?」
「そうなんだけど、それっておかしくない?」
親子の緩い会話もちょっとした癒しだ。三喜雄のスマートフォンが立て続けに震えて、連絡した3人からの返信に加え、大学の同期から帰省の確認が来ていた。
『三喜雄札幌着いた? いつ飲む? 日曜か月曜の夜ならかなり集まれると思う♡』
『着いた。どっちもOKだけどみんな休みとか帰省中だろうから、無理しなくていいよ』
すぐに返信した。音楽専修コース卒の面々は今や日本全国に散らばっているし、オケで演奏している人間ならば、盆休みが無いことも多い。
調整すると言って、同期からのメッセージは止まった。瀧はオープンキャンパスの仕事へのエールをくれて、塚山は盆明けに札幌に帰ると、意味のわからない連絡を寄越した。
ノアは日本語でメッセージをくれていた。それを読んだ三喜雄は、気持ちが引き締まると同時に、何かほっこりとしてしまった。
『Open campus で三喜雄の歌をきいた高校生が、たくさん三喜雄の大学のしけんを受けるといいですね』