藤巻陽一郎の自宅は、三喜雄の実家から地下鉄で駅2つ離れている。高校生の頃と同様、今日も愛車で走って行った。大学院に入学した時、通学のために東京で購入した自転車を、ドイツに渡る前に実家に持ち帰った。以降、普段は母が買い物に使い、帰省した時に三喜雄もこうして乗っている。
藤巻の家の前に着いた時、ピアノの伴奏でイタリア歌曲を歌う伸びやかなバリトンが聴こえた。藤巻は三喜雄を大学院に合格させてから、個人レッスンの生徒を受け入れるようになったが、弟子は今も10人足らずである。聴こえる声は若いので、もしかすると受験生かもしれなかった。
インターホンを鳴らすと、どうぞ、と女性の声がした。三喜雄は少しどきりとする。藤巻の妻が在宅しているようだが、体調は落ち着いているのだろうか。
門を開け、いつも通り鍵のかかっていないやや不用心な扉を開けると、藤巻夫人の
「三喜雄くんこんにちは、お久しぶり」
「こんにちは、ご無沙汰しています……あの、これ……」
三喜雄は鞄から、フォーゲルベッカーのチョコレートの箱を出した。妙子はあら、と朗らかな声を上げる。
「コマーシャルで歌ってる会社のお菓子ね? ありがとう」
三喜雄は妙子の骨ばった手に、淡いクリーム色のシンプルなデザインの箱を渡した。
「宣伝してるみたいですけど、まだ北海道に上陸してないですし、美味しいんですよ」
妙子が今チョコレートを口にできないかもしれず、失礼だったかと三喜雄は密かに気を揉んだが、彼女は微笑した。
「楽しみだわ……もう前の子のレッスンが終わるから、上がっててね」
「はい、すみません」
三喜雄はダイニングに導かれて、よく冷えた茶を出してもらった。麦茶のようだが、何かブレンドされているのか、独特の風味がする。妙子は三喜雄の様子を窺っていた。
「変な味だった?」
「いえ、俺は嫌いじゃないです」
正直な感想を述べると、妙子は痩せた頬に微笑を浮かべる。
「娘が持ってきた健康茶の類なの、はとむぎがベースで……どくだみと、何かいろいろ」
「あ、どくだみですか」
淡い苦みと独特な香りは、確かにそうだった。三喜雄はどくだみ茶は嫌いではない。
「俺今、フォーゲルベッカーのカレンバウアーさんの家に下宿してるんです」
「聞いたわ、おうちが大変なことになったのね」
「あ、はい……それで同情されて、親切にしてもらってるんですけど……自分のとこのお菓子に会う飲み物を追求していて、緑茶と抹茶以外の日本のお茶に興味があるらしくて」
三喜雄の話を聞いて、妙子はどくだみ入りはとむぎ茶の袋を戸棚から出した。
「煮出しのパックなの、幾つか持って帰って、カレンバウアーさんにも飲ませてあげて」
パッケージを見たかっただけだったので、三喜雄は遠慮したが、妙子はチャック付きの密封袋を用意する。
「私明日病院に戻らなくちゃいけないの、このお茶も全部飲めないかもしれないから」
やっぱり一時帰宅か。三喜雄は咄嗟に返事ができなかった。本当に妙子は、命の期限を切られているのだ。かつての祖父もそうだった。
その時、廊下で複数の足音がした。レッスンが終わったらしく、ダイニングに藤巻が顔を出した。
「三喜雄くんお待たせ、どくだみ飲まされたのか」
三喜雄が藤巻に挨拶すると、妙子が嬉しげに言った。
「フォーゲルベッカーのカレンバウアーさんが味見してくださるって」
「ええっ? そんなお茶を飲ませて、三喜雄くんが失職したらどうするんだ」
藤巻がこの茶を好きでないことが察されて、三喜雄は思わず笑った。
師の後ろに立っていたのは、私服だったが高校生のようである。さっきの伸び伸びとした声の主だろう。三喜雄は彼にこんにちは、と声をかけた。すると高校生男子は、三喜雄の顔を見て目を見開き、頬をぽっと赤くした。
「あっ、片山三喜雄さん……」
藤巻は若い生徒の反応にようやく気づき、彼を振り返る。
「ああ、片山三喜雄くんだよ、彼も高3の夏に、今
いや、半べそにはなってないだろ、不貞腐れてたけど。三喜雄は心の中で師に突っ込んだ。
それにしても、池上と呼ばれた高校生男子は、やたらきらきらした目で自分を見てくる。曲がりなりにも三喜雄は先輩というのか、兄弟子になるので、一応声かけをしてみた。
「池上くんは、音楽系受験するの?」
「は、はい、芸大受けます!」
「お……すごい」
三喜雄は受験に関しては、若人に何もアドバイスをしてやれない身である。実技試験では副科のピアノでしくじり、動揺のあまり歌も思うように歌えなかったのに、何故か受かっていた。