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8月 6

 藤巻は池上に言った。


「三喜雄くんは再来週の日曜、教育大学のオープンキャンパスで歌うから……準本選の直前だけど、行けそうなら行くといい」


 準本選という言葉を聞き、池上が声楽コンクールに参加しているのだと察した。予選は突破したらしい彼は明るい顔になって、すぐに食いついた。


「えっ! 行きます! 岩見沢じゃなくて札幌なんですか? 何時からですか」


 このテンションは……カレンバウアー邸の隣の、山下家の子息に似ている。可愛いのだが、どうして声楽男子は、こんな感じになるのだろうか。三喜雄は笑いそうになるのを我慢する。


「えっと、札幌なんですよ……オープンキャンパスは11時からやってて、私が歌うイベントは14時から始まります」


 ここは、きちんと説明する。大学のホームページを見ろと答えれば早いが、それでは不親切だと思うからだ。


「いい大学ですよ、是非ゆっくり覗きに来てください」


 三喜雄はノアのメッセージを思い出して池上に言ったが、東京の芸大を狙っている子には不毛な勧誘だった。藤巻夫妻は微妙に笑いを堪えている。

 池上はぽかんと三喜雄の顔を見つめ、いや、あの、とますます赤くなりながらもじもじした。


「片山さんにそんな風に言われたら、進路変更しなきゃいけないですね……」

「いやいやいや、芸大一筋なら変えなくていいよ……先生すみません、若者を惑わしました」


 やや困惑した三喜雄は藤巻に助けを求めた。師は笑いつつ若者に語る。


「まあキャンパスに行ってみて教育大学が良くなったとしても、実技試験の内容はそう変わらないからね」


 実技に一次試験がある芸大のほうが大変なはずだが、そこは今突っ込まないことにする。池上は、再来週頑張ってくださいと三喜雄に興奮気味に言い、嬉しそうに帰って行った。

 藤巻とレッスン室に入り、三喜雄はあらためて、住居のことで心配をかけたことを詫びた。


「とにかく落ち着いてるみたいでよかった」

「はい、いろいろ考えさせられました」


 三喜雄が言うと、藤巻は少し眉を上げた。小生意気な弟子から殊勝な言葉が出たからかもしれない。


「そうそう、三喜雄くんはもう、あんな風に若い人から憧れられる立場になりつつあるから、その辺は自覚した方がいいね」


 想定外の話の流れに、へ? と三喜雄は高い声になった。藤巻は苦笑した。


「池上くんは三喜雄くんと似ていてね、高校の混声合唱部でテノールパートにいるんだけど、声はバリトンなんだよ……身長が今も伸びてるらしいから、体型的にもたぶん」


 どの人種でも、低音の歌手のほうが背が高い傾向がある。三喜雄の身長は175センチで、バリトンとしてはやや小さいかもしれない。180センチを少し越える塚山天音などは、日本人のテノールでは珍しいのだ。

 三喜雄も高校のグリークラブでは、当初テノールパートに所属していた。


「本人はテノールでやっていきたいんですか?」

「未練はあるんじゃないかな、僕が与えてる曲は文句を言わずに歌ってるけど」


 コンクールもバリトンでエントリーしているというが、音楽系大学の声楽科で学びたいというのであれば、声種はもう決めておかなくてはいけない。ただ三喜雄は高い声も出るので、オペラアリアは難しいが、一般的にテノール向けとされる歌曲も歌ってきた。

 藤巻はピアノの椅子に腰を下ろし、三喜雄を見上げる。


「池上くんは特に三喜雄くんに憧れてるんだよ、バリトンだけど高い声域の歌も歌える……ということになってるから」


 含みのある言い方に引っかかったが、まあ師匠の言いたいことはわかる。何にせよ、憧れという言葉は微妙に心地良い。


「低い声を鍛えたら、高い声も良くなります」

「だね……もし池上くんと話す機会があったら、経験者として言ってあげて」


 あの子もかつての三喜雄のように、度胸試しのために声楽コンクールに出て、受験勉強にもきりきり舞いしながら、練習しているのだろう。自分なんかに憧れなくても、あの明るく伸びやかな声を大切にしながらしっかり鍛えたら、いい歌い手になれそうだと三喜雄は思う。


「俺また大学生と歌うんですけど、若い子は見てるだけで元気がもらえますね」


 藤巻は目をぱちくりさせた後、苦笑した。


「30代のきみが何を年寄りくさいこと言ってるんだ……さて何から歌う?」


 三喜雄は鞄の中のクリアファイルから、ばさばさと楽譜を出す。差し当たっては再来週歌う3曲だが、これから大学生と歌う曲が何せ難曲だ。少しでもそちらを見て欲しかった。

 すぐに歌うモードに入ることはできたものの、どこかの部屋で座るか横になるかしているであろう、藤巻の妻のことが気になった。夫の生徒が爆音を放つことには慣れているだろうけれど、彼女にとって極度に耳障りになりたくなかったので、約1時間半、三喜雄はいつも以上に丁寧に歌った。



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