父は藤巻とメッセージのやり取りをしたらしく、三喜雄の持参したチョコレートを、妻の妙子が少しだけ口にして喜んでいたようだと教えてくれた。父と藤巻は高校時代の同級生で、互いの結婚式に出席した間柄である。
「三喜雄の歌を聴いてから病院に戻れてよかったとも、言ってたらしいよ」
父から聞かされて驚いたが、面やつれした師の夫人を思い出すと、そう、としか三喜雄は返せなかった。
「おまえ、クラシックゴリゴリでやってくんじゃなくて、癒し系歌手みたいに売り出してもらったらどう?」
父の言う意味がわからず、は? と三喜雄は思わず返した。
「何だよそれ、藤巻先生がそんなこと言ったのか?」
「まさか、藤巻もクラシックゴリゴリなのに……あいつ演歌上手いんだけどな」
父は親友と息子がこの業界で生きているのに、クラシックはあまり聴かないし、知らない。藤巻がカラオケで演歌を歌った話などしたら、日本の名バリトンを神聖視するゴリゴリのファンが卒倒しそうだ(三喜雄はちょっと聴いてみたいが)。
「会社の人から言われたんだよ、息子さんの声癒されますよねって」
洗濯物を抱えて部屋に入ってきた母は、父の言葉に笑った。
「おじいちゃんもそんなこと言ってたね、そう言えば」
祖父母は本当に、三喜雄が歌うのをよく観に来てくれた。褒めてくれるだけでなく、良くなかったところを指摘してくれた。彼らは自分の最初のファンだったと思う。
三喜雄は母が腕から下ろした乾いたタオルを、一枚ずつ畳みながら呟く。
「そんな方向に走って消えた歌手が、これまでどれだけいたことか……」
「三喜雄の所属してる事務所は、そういうのじゃないもんね」
とはいえ、三喜雄が強く望めば、イメージとして打ち出してくれる可能性はあった。
「チラシのキャッチに書いてもらうくらいはできるかも」
しかし母は、うーん、と首を傾げた。
「『癒しのバリトン、降臨』みたいな感じ? 何か気持ち悪くない?」
それを聞いて父は、だはは、と笑った。
「気持ち悪いしインチキ臭いな」
両親揃って、気持ち悪いとはどういう意味だ。三喜雄は憮然としてしまった。
まあとにかく、両親が相変わらず自分の行く末を心配しているのは確からしい。火事に見舞われた上に、仮住まいに外国人セレブ宅に転がり込んでいることも、三喜雄が考えていたよりは、気になっているようだ。東京に戻る時に、ノアに手土産を持っていくように両親から言われた。
すすきのの海鮮居酒屋に一番に到着してしまった三喜雄は、外で待つのは暑いからと気遣ってくれた店員のおかげで、12人が座る予定の座敷に入れてもらえた。そんなに早く来た筈はないのだが、休み中だからか、皆のんびりしているようだ。三喜雄はスマートフォンを鞄から出して、独りでエアコンの風に頭頂をなぶらせる。
襖を隔てた隣の座敷の賑わいを耳に入れながらネットニュースを見ていると、順番に同級生たちが到着し始めた。
「あっ、ドマスのCMの人がいる!」
「おー三喜雄、母なる大地におかえり」
「みんな頼むから普通に挨拶しろよ」
こんな風に変わらず自分に接してくれる学生時代の友人の存在は、本当に有り難いと三喜雄は思う。藤巻の家で出会った高校生に言ったのは決して嘘ではなく、三喜雄は大学の4年間を地元で過ごして良かったと思っているし、芸大でなく教育大で音楽を学んで正解だったと今でも感じている。実は枠に嵌められるのが結構嫌いなので、芸大だと潰れていたような気がするからだ。
店に5分前に着いた三喜雄が一番早かったことで、幹事は乾杯の際に揶揄されたが、無事に12人が揃って会食が始まった。
今や同期の半分が、教職に就く者は別にして、音楽を主たる生業とはしていない。三喜雄だって教員の仕事が無ければ、生活していけないところだ。それでも皆屈託なく近況報告をして、昔話に花を咲かせる。
「片山くん大学で歌うんだ、それ一般公開するの?」
大学のオープンキャンパスの話題になり、場が盛り上がった。
「どうなんだろ、高校生とその親はフリーパスっぽいけど」
「うちの子小2だけど、受験生のふりはできないよね」
皆げらげら笑った。結婚が早かった同期に、もう小学生の子どもがいることに、三喜雄はあらためて驚く。
「ミニコンサートのあとにトークショーもあるよ」
三喜雄が言うと、何故か笑いが起きた。
「どんな学生生活送ってたとか話すの? やばい」
「三喜雄が音楽専攻のロールモデルだと思われるのは、まずいわ」
口々に言われて、そうなのだろうかと三喜雄は思う。
「どうしてだよ、みんなよりちょっと修得単位数が多かったから?」
「それは普通やらないって高校生にちゃんと話すべきだな」