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8月 13

 サイレンは次々と重なり始めて、消防車と救急車が複数やってきたことが窺えた。何となく不安になった三喜雄は、シャツに腕を通しながら窓の外を見たが、火事を思わせる光景は見当たらない。おそらく緊急車両は、キャンパスの反対側の道を通り過ぎて、住宅街に向かっているのだろう。

 サイレンは遠ざかると、また新しい音が近づいてくる。あの朝も、こうしてひっきりなしに、この嫌な音が聴覚を叩いていた……。

 ネクタイをなかなか結ぶことができない三喜雄は、自分の手が震えていることに気づく。あの忌まわしい朝、マンションの前に、何台の消防車が並んでいただろう。そして自分を含めた数人は、救急車に運び込まれた。

 まずい、と思った。何とか身支度を整えて、サイレンの音をシャットダウンすべく、イヤホンを耳に突っ込んだ。しかしサイレンは、イヤホンと耳の隙間から忍び込んでくるように小さく響いてきて、やがて三喜雄の心臓を嫌な感じにどきどきさせ始める。

 三喜雄は2度深呼吸して、水筒にゆっくり口をつけた。ちらっと腕時計を見ると、もう講堂に向かわなくてはいけない。大丈夫、ここが火事になっているのではないし、逃げる必要も無い。自分に言い聞かせながらゆっくり立ち上がり、水筒とイヤホンを鞄に入れた。

 ティッシュと絆創膏を入れたポーチの中に、ノアのハンカチがあることを思い出した。三喜雄はポーチからそっとそれを出し、左手に握りしめる。もう一度深呼吸して、喉に息を送り出してみた。空気は抜けてしまわずに、声帯をゆったりと揺らした。

 今日は大丈夫、声が出る。会議室を出てエレベーターに向かうと、2人の職員がいて、お疲れさまです、と三喜雄に言った。サイレンはまだ鳴っており、不安感が拭えない。


「近くで火事ですかね?」


 三喜雄が訊くと、職員たちはそうみたいですね、嫌ですね、と口々に答えた。


「最近、学生がたくさん下宿してる辺りで放火があったんですよ……注意喚起したばかりだけに、気になります」


 放火という言葉が、三喜雄の不安を煽り、心臓の動きをますます早める。2人の職員は、コンサートが終わった後の舞台転換に駆り出されているらしく、三喜雄と一緒に講堂に向かった。三喜雄が押し黙って歩くのを、本番前だからだと彼らが解釈してくれているのは、都合が良かった。

 講堂の前にはずらりと行列ができて、入り口に向かってのろのろと進んでいた。三喜雄は盛況ぶりに驚きながら、職員たちとその場を通り過ぎて、前方の入り口を目指した。職員たちは来客の目から三喜雄を、さりげなく遮るような位置取りをする。


「片山さんの熱狂的なファンが突撃して来たらいけないので……じゃあ私たちはここで、頑張ってくださいね」

「あ、いろいろありがとうございます」


 そんなファンがいるとは思えないが、答えておいた。職員たちとまともに言葉を交わせたのでほっとしたものの、嫌な感じが身体から抜けず、三喜雄は焦る。クリーム色のハンカチが、汗で湿っていた。

 薄暗い袖に回ると、ふわりとした生地の白いワンピースに着替えたダンサーの華村はなむら恵茉えまが、壁に脚を掛けてストレッチをしていた。


「お疲れさまです、こんな格好ですみません」

「いえいえ」


 華村は三喜雄より2学年下だと聞いたが、随分落ち着き晴らしている。それにさっきリハーサルで見た印象より随分と小柄なので、舞台で大きく見える人なのかと、一瞬どきっとした。「本物」の歌手やダンサーは、舞台の上でとてつもないオーラや存在感を発揮するのだ。

 彼女は三喜雄の顔を見つめて、小さく言った。


「片山さん、顔色良くないですよ……まだ時間あるから座ってください」


 ぎくりとした三喜雄は、あ、と思わず呟く。華村の言葉に甘えて、彼女の傍らの椅子に座り、ひとつ息をついた。


「ごめんなさい、さっきから消防車と救急車が走ってるのが気になって」


 正直に言うと、腕を伸ばしていたダンサーは、ひょいと三喜雄の背後に回ってくる。


「確かにちょっとうるさいですよね、怖いですか?」

「ええ、6月の末に住んでたマンションが火事になって、煙に巻かれながら避難したんです、それ以来火事を思い出すようなことがあると調子が……」


 話しているほうが、気が紛れた。すると華村は、失礼、と言ってから、両手をぺたんと三喜雄の肩甲骨の辺りに置いた。

 思わずぴくんとすると、華村は手をゆっくりと動かし始める。


「緊張して背中がちがちですね、ちょっとマッサージしますから、片山さんは何か楽しいこととか落ち着くこととか想像しててください」


 華村の手は、肩甲骨まわりを撫でてから、腰に向かってゆっくり下りる。三喜雄は、こんな時にいつも背中を撫でてくれる、ノアの大きな手の感触を思い出した。


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