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8月 14

 クリーム色のハンカチで鼻と口を覆い、目を閉じた。ハンカチにはまだ僅かに、ノアに抱かれている時に匂うものが残っている。華村の手は同じ軌道を描き、無駄に硬直した背中の筋肉を温め、緩めてくれた。

 その時、床に置いてジャケットを被せていた鞄から、スマホの震える音がした。三喜雄は目を開き、ハンカチは顔に当てたまま、鞄に右手を伸ばす。


『三喜雄、調子はどうですか? 配信がはじまりました。今、出演者とプログラムのしょうかいをしています。会場の中がうつっていますが、あっという間に席がいっぱいになりましたよ。がんばってください』


 ノアからのメッセージに、思わず涙ぐみそうになる。三喜雄の感情の動きを察したのか、華村が手を止めた。


「気持ちを乱す連絡でしたか?」

「いえ、火事以来ずっと私を助けてくれている人からでした……東京で配信を観てくれてます」

「それはよかったです、今首と肩の力が一気に抜けましたね」


 すっかり背中を任せてしまっていたが、このダンサーがやはり身体のことをよく知っていることに感心した。大学生の頃、どの筋肉を使うことで声が出るのかを勉強したが、歌手にとって背中は大切なのだ。

 川畑が袖に来たのは、開演3分前だった。彼女は誘導などでばたばたしていたとみえ、やや息を弾ませていたが、ちんまり座る三喜雄の様子が普通でないことをすぐに察した。


「片山くんどうしたの? 気分悪いの?」

「ちょっと緊張してます」


 ピアニストとしてだけでなく忙しい川畑を心配させたくなくて、三喜雄は適当なことを言ったが、逆効果だったようだ。


「は? 私学生時代に、緊張してる片山くんってほとんど見たこと無いんだけど?」


 三喜雄の背中側に立っていた華村が、くすっと笑った。


「さっきから消防車走り回ってるじゃないですか、片山さんはあれが気になるみたいです」


 おい、言うのかよ。三喜雄は思わず背後の華村を振り返ったが、彼女は真剣に言った。


「私は演奏のことはわかりませんけど、これから片山さんは川畑さんと2人だけで舞台に立つんですから、相方にはご自分の状態を話しておくべきです」

「……あ、そうです、かね」


 言われてみれば、華村の言葉はもっともだった。もうたぶん大丈夫だけれど、万が一演奏中に三喜雄が調子を崩すようなことがあれば、川畑を必要以上に動揺させてしまう。

 開演を知らせるチャイムが鳴った。舞台のほうから聞こえていた客席のざわめきが、すっと静まる。三喜雄は心配そうに立つ川畑に、言った。


「最近まで住んでた東京のマンションで火事がありました、サイレンを聞いてちょっとフラッシュバックしてます」


 川畑は、えっ、と小さく言う。彼女の驚きと不安を拭うため、三喜雄は続けた。


「だいぶ落ち着きました、歌えます」


 口にすると、自信が湧いた。今日は声が無くならないから、大丈夫。自分のウォームアップの時間を割いてマッサージをしてくれた華村と、タイミング良くメッセージをくれたノアのおかげだと思った。

 その時、このイベントを仕切っている入試広報課の職員が、出演者たちに声をかけた。


「時間通り開始します、斉藤さんは客席ですか?」

「はい、袖が狭いので片山さんの演奏が終わってから来るよう言ってます」


 川畑が答えると、職員は了解、と応じ、上手の袖に合図を送る。コンサートとトークショーの司会を務める、これも卒業生の地方局アナウンサーが上手から登場して、会場から拍手が湧いた。

 男性アナウンサーは明るく受験生たちに挨拶し、出演者に関する詳細はトークショーで紹介すると前置きして、三喜雄が歌う曲目を会場に伝えた。ジャケットを整えた三喜雄は、ノアのハンカチをポケットにそっと入れる。

 よっしゃ行こ、という川畑の声を合図に、舞台に踏み出す。ソリストの立ち位置を示した場ミリで立ち止まり、満席の客席に向かって、川畑と共に頭を下げた。わっと起こった拍手に、三喜雄は久々の高揚感を味わう。

 後ろのほうの席で、舞台に向かって挙げた手を振る一群があった。同級生たちだと認識して、三喜雄は苦笑してしまった。若い子に引かれるぞ。

 朗らかな前奏が鳴り、三喜雄はパパゲーノとなるべく集中する。もう嫌なサイレンは聞こえない。

 声は滑らかに出てくれた。リハーサルの時はマイクを通した自分の声が気になったが、人がたくさん入ったおかげで、響きが落ち着いている。全てのコンディションは悪くなかった。


「『全ての鳥は俺さまのものだから』」


 三喜雄は掌を上に向け、右の腕を上げた。色とりどりの小鳥たちがその手を目指して飛んでくるのが、見えた気がした。


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