東京都学生合唱連盟の特別合宿は、横浜市内ではあるが随分自然豊かな場所でおこなわれるようだった。生粋の横浜市民、小田亮太に尋ねてみると、バスが少なく、車が無いと結構行きにくい場所なんだがと心配されてしまった。
合唱連盟の事務局は、車を出している学生が京急金沢八景駅に送迎すると言ってくれるが、その学生の練習時間を奪うことになるので申し訳ない。札幌周辺しか走ったことが無いとはいえ、一応三喜雄は免許を持つ身なので、レンタカーを使おうと考えた。
しかし、ノアに反対されてしまった。彼は、ペーパードライバーである三喜雄が運転するよりも、帰国したら車に乗っている自分が、免許の切り替えをしたほうがいいと言った。とはいえ、ドイツは左ハンドル右側通行なので、日本で運転したことがないノアの車もちょっと危険ではある。
そんなメールを瀧にすると、彼女は半分怒りながら電話してきた。
「片山さん、私はあなたの何ですか? カレンバウアーさんも私を何者だと思ってらっしゃる? マネージャーですよ? 私が運転するの、知ってますよね?」
もちろん瀧に頼む選択肢はあったが、三喜雄は家庭を持つ瀧に、休日に遠方に送迎させるのは好ましくないと思ったのだった。しかしその配慮が彼女に不快感を与えるとは思わず、おろおろしてしまう。
「いや、はい、瀧さんが運転するのはもちろん知ってますよ、でもちょっと辺鄙なところなんです」
「どんな場所でも求められる舞台に演奏家を送り届けるのが、私たちの仕事なんですから」
そんな訳で三喜雄は、まだまだ暑い休日に、神奈川県まで瀧とドライブすることになった。練習時間は13時から17時半、営業の橋本が午後から横浜にいるらしく、帰りは彼に拾ってもらい東京に戻る段取りになった。
3連休の最終日なので、学生たちはこれまでの2日間でみっちり練習していると思われた。今日は全体合奏に三喜雄がつき合い、時間があれば男声合唱との絡みを細かくチェックしたいということである。
瀧はナビを見ながら、流れに乗って車を走らせる。退院してからあまり彼女と直接話していなかったと、三喜雄は気づいた。
「俺もしかして、報告しない奴ですかね」
三喜雄が問うと、いいえ、と瀧は即答した。
「始まる前と終わった時に一報をくれて、仕事をちゃんと済ませてくださるので、やりやすい演奏家ですよ」
そうなのか。まあ塚山みたいに世話のかかる奴もいるからな、と納得する。彼女は続けた。
「ただ、ちょっと困ってることなんかを今まで一人で解決してたんだなと思いました……マネージャーがつくということ自体に片山さんが不慣れなんだから、これは私に配慮が足りなかったです」
「そんな、すみません……」
「片山さんが謝ることは無いです、ほうれんそうの『そう』が少し足りないだけですから」
瀧は三喜雄に、カレンバウアー邸での暮らしの様子を尋ねてきた。彼女や事務所にしてみれば、焼け出されて流浪の民になりそうだった三喜雄の日常が落ち着いたかどうかは、大きな懸案だろう。
「普通に学校のお仕事も歌のお仕事もこなしてらっしゃるから、特に不便は無いんだろうと思ってますけど」
「はい、カレンバウアーさんには申し訳ないくらい良くしてもらってます……家にピアノがあって、周りに住む人も音楽をしてるので、気兼ねなく練習できるのも助かります」
ノアの許可を得て、もうしばらく下宿させてもらうことにしたと、報告しておく。瀧は、ほっとしたようだった。
「カレンバウアーさんがいいのなら、片山さんにとってもそのほうがいいですね……これから年末まで本番も混みますから、身も心も安らげる場所が片山さんには必要かと」
瀧にまでこんな風に言われて、三喜雄は恐縮すること甚だしい。彼女もノアも、歌手としての三喜雄のコンディションを、おそらく三喜雄以上に気にかけてくれている。
横浜の市街地を抜けてしばらく走ると、車窓がのどかになってきた。初めて訪れる場所なので、三喜雄は何となくわくわくしてくる。
「瀧さんは東京の人なんですか?」
「いえ、私は山梨です……当たり前なんですけど、関東平野って山が無いでしょう? あれが落ち着かなくて」
「ああ、わかります」