三喜雄がもじもじと呼びかけると、ノアははい? と応じた。あのハンカチを借りた時もそうだっただろうに、また変な奴だと思われるに違いなかった。
「借りてるハンカチなんですけど……匂いが抜けてしまったので……」
ノアはゆっくり瞬いた。あまりよくわかっていない時の仕草だ。三喜雄は覚悟して、丁寧に説明することにする。
「俺あのハンカチに移ってる、ノアさんの部屋の匂いが……落ち着くみたいなんです、だから、その……しばらくそちらに置いておいてもらえませんか?」
ノアは3秒間三喜雄の顔を見つめてから、ぷっと吹き出した。そして笑いながら言う。
「だったら、私の部屋で使ってるルームフレグランスを貸しましょう……三喜雄のリネンにも、たまに少しだけスプレーしてるんですけどね」
北海道から帰ってきた時、ノアは三喜雄のベッドのシーツを洗ってくれていた。確かにふわっと優しい緑の匂いがしたが、ハンカチに染み込んだ匂いと少し違う。
「えっと、あの匂い……は好きなんですけど、ちょっと違うんです……」
自分が変態のように思えて、恥ずかしくなってきた三喜雄だが、あくまでもノアの対応は誠実である。
「まあ確かに、同じスプレーを使っていても、そこにずっといる人によって香りが変わってくるかもしれませんね」
あ、何となく通じた。三喜雄はほっとする反面、ノアの匂いが好きだからという奇妙な告白をすることになってしまい、微妙な気持ちになった。
「すみません、俺気持ち悪いですよね」
三喜雄は目の端でノアを窺いつつ、呟いた。しかしノアは、明るい声で応じた。
「そんなことはありません、匂いの好みは重視するべきだし、三喜雄が私の匂いが好きだと率直に教えてくれるのは、とても嬉しいですよ」
にこにこしているノアを見て、前向きだなと三喜雄は思う。ノアは弾んだ声で、さらに前向きな提案をしてきた。
「じゃああのハンカチの他にも、何枚か用意しましょう……三喜雄の好きな手触りのものを選んで、替えとして私のタンスに入れておくといいですね」
ひえぇ、と三喜雄はのけ反りそうになった。そこまで要求していない。
「いや、ノアさん、そんな気を遣ってもらわなくても……」
「ハンカチくらいいいですよ? 今日は持って行こうと三喜雄が思う日に、自由に持ち出せるようにしておきましょう」
話が早過ぎて、しかも大きくなり過ぎだ。こうでないと、会社のトップは務まらないのかもしれないけれど。
ノアは笑みを浮かべたまま、少しだけ声の音量を落とす。
「私の部屋の匂いが落ち着くというなら、ベッドを持ち込んでくれても構わないですよ」
「は……?」
さすがに三喜雄は、これには拒否権を発動することにした。
「それは結構です、2台もベッドを入れたら歩けなくなりますよ」
「じゃあ一緒に寝ますか?」
「寝ません」
きっぱりと答えると、リビングに沈黙が落ちた。ノアが顔から笑いをすっと引いたので、ちょっとはっきり言い過ぎたかと三喜雄は軽く焦ったが、彼は気を悪くしたというよりは、少しがっかりしたように見えた。
「そうですね、冗談が過ぎました」
「あー……」
寝ますと答えたら、この人どうするつもりだったんだ? 三喜雄は一抹の疑問を覚えたが、追求しないことにする。
「えっと、緊急事態にはお願いすることもあるかもしれません」
ノアが反省モードに入ってしまったようなので、フォローのつもりで三喜雄は言った。するとノアは、ぱっと明るい顔になった。
「それはもちろん、遠慮せずに来てください」
「俺としては、そんなことにならないほうがいいと思ってますけど」
「辛い夜に泣きたくなったら、どんな理由でも歓迎します」
こう話を運ばれると、すみません、としか答えようが無かった。やっぱりこの人、俺のこと好きなんだろうなぁと今夜も思ってしまう三喜雄だった。