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9月 8

「そうですか、私去年の夏も学生さんたちの合宿に突撃してましたね」

「はい、そういう楽しそうな話も聞いていて、本番にも行かせてもらいました、それで片山先生にお引き受けいただきたかったので……」


 有り難い話である。三喜雄は世話になった北海道の連盟の学生たちの顔を思い出し、胸の中がぽっとするのを感じた。

 すると中原がすすっと桧山の傍にやってきて、小さく言った。


「桧山さん、片山さんは先生呼びNGでお願いします」

「へ?」


 そんな厳密でなくてもいいのだが。三喜雄は苦笑してしまった。ああ、そういうこと? と桧山はすぐに納得し、袴田がくすっと笑った。

 ピアニストの久宮は、三喜雄とあまり変わらない年齢に見え、細身で背が高かった。ちょっと冷たい印象を受けるが、微笑して自己紹介してきた。


「久宮清明きよあきです、至らないところもありますがよろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」


 久宮から値踏みされている感じがした。まあ、初顔合わせあるあるだ。学生たちは三喜雄を手放しで歓迎してくれても、プロの指導者やピアニストはそうはならない。

 学生たちは大集会室に集まっているということなので、三喜雄は楽譜と水と筆箱を持ち、袴田たちについて行った。

 三喜雄が歩きながら軽くハミングしていると、袴田が振り返った。


「片山さん、いきなり歌ってもらってもいい?」

「はい、どこからいきますか?」

「男声合唱は後で時間取るから、景気づけにテンプス・エストからいく?」


 景気づけという言葉に、思わず三喜雄は笑った。フルの合唱の間をソプラノとバリトンのソロが縫う、ノリの良い曲である。

 桧山が集会室の扉を開け、袴田を先頭に中に入った。三喜雄がその部屋に足を踏み入れると、わっと拍手が起きる。合唱のメンバーはざっと数えて80人ほどだった。

 三喜雄は合唱団に深々と頭を下げた。難曲に取り組む、大切な共演者たちだ。さらに大きくなった拍手が収まるまで待った中原が、午後の練習の開始を告げた。


「本日夕方までおつき合いくださいます、バリトンの片山三喜雄さん」


 紹介されて、三喜雄は再度頭を下げる。どうもひと言口にしないといけない雰囲気だ。


「初めまして、片山です……このたびソリストにご指名いただき、大変光栄に思っております」


 テノールの後方から、口笛が複数飛んだ。男声が元気なのは良いことである。昨年末の北海道の演奏会と、合唱の全体の人数は変わらないが、男子の割合が少し高い。「カルミナ・ブラーナ」は男声合唱のみの部分があるからだ。


「私自身この曲のソロをいつかと思ってきたので、夢が叶って嬉しいです……ちょっとまだ仕上がっていないのですが、今日はどうぞよろしくお願いします」


 自分を見る若い子たちのきらきらした目が眩しい。三喜雄も大学生の頃は、こんな風にソリストに憧れの目を向けた。三喜雄くんはもう憧れられる立場なんだから、という藤巻の言葉が、今頃沁みる。

 袴田が合唱団に向かって言った。


「みんな早く片山さんと絡みたいと思うので、テンプス・エストからいきましょう」


 全員ががたがたと立ち上がる中、カスタネット無いでーす、とバスから声が上がり、笑いが起きた。袴田は突っ込む。


「あったとしても、片山さんの迷惑になるからおやめあそばせ」


 ソリストの歌のバックで鳴るカスタネットのことらしい。盛り上げてくれるというなら、何を鳴らしてくれても構わない。


「いえいえ、タンバリンでもマラカスでもいいですよ」


 三喜雄が言うと、カラオケボックスじゃないです、という声が出て、笑いが起きた。

 合唱団の雰囲気はいいと三喜雄は感じた。やはり同世代の同じ趣向を持つ人が集まると、ノリが断然いい。


「ところで私どこで歌います?」


 三喜雄は楽譜を開いたまま、袴田に訊いた。おいおい、と誰かが突っ込み、また笑いが起きる。バスパートの最前列の学生たちと桧山が、慌てて予備の椅子を出しに行った。

 ごめんなさい、と三喜雄に謝ってから、袴田は皆に説明した。


「指揮者のご意見はまだ聞いてないんだけど、ソリストは合唱の前に立ってもらいたいと考えてます……バリトンは板付き、テノールとソプラノは途中で出てくるのが最近多いよね、片山さんはど真ん中かな」


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