――は、と急激に意識は現実に戻り、勢いよく目を見開いた。
別段、悪い夢であった気はしないのに、バクバクと心音が早く、呼吸が乱れている。普通なら普段見ているような戦闘の夢でうなされるであろうに、俺はあんなにも花一つでこんなにも心が乱されてしまうのか、と呆れた。たかだか花だ。今や見ようと思えば、身の回りに幾らでもあるのに。
「夢……、か」
もぞもぞと寝返りを打って仰向けになると、伸びをしながら大きく呼吸を整える。そして、気怠い体をゆっくりと起こす。寝癖でくしゃくしゃになった長い髪を梳きながら、寝ぼけ眼を擦り、うぅん……と声に出して、再度伸びをすると、ぼんやりとカーテンの先を眺めた。
昨夜、うっかり閉め忘れた窓からは、朝の始まりの絶望感とは裏腹に、爽やかな風が吹き込んで濃緑のカーテンがふわふわと揺れていて心地良い。
裸足のまま床に降り立つと、寝室から出て朝食の準備に取り掛かるため、腹を掻きながら、ダイニングキッチンへと向かう。ドアを開いて中を確認すると、昨夜、無理矢理風呂に入れたGK-8の姿があった。眠っているのか狸寝入りなのか、少し離れたところにいる晴からは逆光で確認出来ないが、わざと立てたドアノブの音に反応せず、ぴくりともしないところを見ると、どうやら寝落ちしてしまっているのだろう。まあ、彼は警戒心があるようでない男なのだ。
はあ……と大きくため息を吐くと、そろそろと抜き足でGK-8に近付いた。憎たらしいほどに美しい寝顔を曝け出す彼を殴ってやりたいと思う衝動を一旦よそに、ふに、と固い頬をつねると、「あの」と声をかけた。これではまるで大きな猫を拾ったみたいだ。
「こんなところ、人なんてなかなか来ないっスから、ちゃんと布団で寝てくださいって言ったでしょ」
とは言いつつ、幼い頃からずっと組織に身を捧げ、戦場に身を置いていた彼には、布団なんて暖かくて贅沢なものは、必要ないのかもしれないが。
当たりやしないと思っていた手刀は、ぽすんと彼の白銀に当たる。――全く油断しているのかいないのか、どっちなんだよ。顔を引き攣らせて呆れ顔を見せる。しかし、綺麗な翡翠色の瞳をのっそりと開いたGK-8は、少しも驚いた様子を見せず、確実に晴を見上げたことから、おそらく晴の存在には気が付いていた。晴のことを信頼しての態度だったのだろう。――と、彼を知る身としてはそう思いたい。
「おはよう、YM-200」
「今は夜空晴っスよ。夜空か晴って呼んでください」
「……?夜空……」
「はい、おはようござます」
とにかくこの男には、
そして、漸く朝食作りに取り掛かることが出来る。いつものように数枚のパンをトーストしながら、野菜を切り、食器を戸棚から取り出していく。
――昨夜、GK-8が牛丼屋に飛び込んできた理由。それは、軍事組織『スターアロー』の連中に追われてきたからのようだ。晴と組んでいた時には
晴としては、上手く追われることもなく組織を抜け出すことに成功しているのに、彼らと衝突して、組織に戻されることだけは避けたい。だって、死ぬべき時に死ぬことが出来ず、半身機械人間として生かされているのだ。恨みこそあれど、彼らに服従する理由なんてもうどこにもないのだから。
それなら、
寝起きで全く働いていない頭の中で、疑問だけを繰り返しながら、朝食の準備を進めていると、インターフォンの音が部屋に鳴り響く。昨日、朝に届くように頼んでおいた宅配だろうか。そう思い、腑抜けた顔でぼんやりとしている出てくるように頼むと、素直に従ってくれるから、彼は昔から苦労しない。それ以上に、きちんとした対応が出来るかどうかが問題だが、そこは彼自慢の辞書のような知識に任せることにする。
――宅配かもしれない。
そう言った晴の言う通り、まっすぐで無防備な廊下を歩き、昨夜彼と入ってきた玄関のドアを開ける。だがそこには、知識にある宅配の職人ではなく、気の良さそうな大男と、子どもが立っていたのだ。大男の方は黒髪に眼鏡をしていて、鋭い紅蓮の目を持っているがその目は穏やかそうで、GK-8の登場に驚いているのか、きょとんと見開いていて「ええ……と」と口にした。普通の人間であるが、育ちが良いのだろう。がっしりとした体格に恵まれ、手を繋いでいる白い髪の少年の何倍もの背丈を持っている。正直、GK-8は想像と違っていたことよりもそちらに驚いていた。
「おっさん誰?」
「こ、こら
「……僕は、肉体――むぐ」
「ああっ、と……ごめんなさいっス。こいつ変な奴で」
「大丈夫大丈夫。でも晴くんじゃない人が立ってるんだもん。ちょっとびっくりしちゃった」
「本当にすみません。宅配かと思ったばっかりに」
「ううん。俺たちもちょっと早かったね」
ありのままを自己紹介しようとしたGK-8の口を後ろから手で押さえ、大男と親しげに話している晴。そして、大男の隣に立つ
「こら、花人くん。あんまり見てると失礼だろ」
「おー」
「すみません。俺、
「おー、よろしくな」
「よろしくお願いします、だろ」
「よろしくおねがいしまーす」
「とにかく急がないと。朝ご飯出来てますよ」
「毎度ごめんね〜」
いつまでも花人と見詰め合っているGK-8に、晴は「潰さないでくださいよ」と耳打ちすると、三人でダイニングへと入っていく。GK-8は、理解したのかそうでないのか、曖昧な返事をする。
子どもか。正直この世で一番よく分からない
ぼんやりとした桃色の垂れ目に、うさぎの人形を抱えている彼は、知識の中の
「おい、あいつらは……」
「自己紹介されたでしょ?俺のお隣さん望月さんが多忙だから、ハナのこと朝だけ預かってんの。時々夜も」
「へえ」
「聞いたくせに興味なさげっスね……」
人知れず、こそこそと会話をしている間にも、ガツガツと大口で朝食を食べてしまった圭は、慌てて立ち上がり、壁に引っ掛けてあるシンプルな時計を見る。そして、「やば」と短く声に出すと、床に置いてあるリュックをひったくり玄関へ向かって駆け出した。
「じゃあ、俺いくよ!あ、君のことはまた詳しく聞かせてね?」
「行ってら〜」
ドタドタ。バタン。
まるでその騒がしさが日常茶飯事のように、激しい音を立てて出ていった圭に見向きもせず、GK-8をチラチラと見ている花人。「ハナも保育園あんだから、さっさと食べてくださいよ」と、晴は急かすが、ぼんやりとした垂れ目は、そんなもの無視だ。
「ほら、さっさと……」
「なあ、おっさん誰?」
「僕はGK……」
「
「へえ」
「…………」
さっきもそれだった。自ら自己紹介をしようとすると、必ず晴に口を塞がれる。真実を伝えているだけなのに。それにGK-8やYM-200――今は夜空晴と名乗っているのだったか。そんな二人のような『スターアロー』に勤める肉体強化人間は、強化の施術が行われる前に、本名は捨てさせられ、もらった名前に誇りを持つようにと命令されているのだ。だから、そんな一般人のような名前を付けられるなど心外だ。
ムッとした視線を晴に向けるGK-8――基い、雫にとうとう痺れを切らせた晴は、「あとでちゃんと説明しますから。黙っててください」と耳打ちしてきた。
「じゃー……、しーくんだな」
「しーくん……」
「あだ名付けが終わったなら、そのプリンさっさと食べてください。遅れるっスよ」
「おー」
デザートのプリンを頬張っていた花人は、晴の一声によって最後の一口を食べ終えると、椅子から飛び降りて保育園へ向かう準備をする。水色のスモッグに黄色の保育園帽。それを着せるために
「アンタもきますか?そっからそこだけど」
「お……ああ……」
走って行ってしまおうとする花人を腕力だけで押さえながら、唖然としている雫を誘う。訳も分からず返事をするとそのまま立ち上がり、晴と花人の後を着いて言ったのだった。
× × × × ×
保育園まで着いてくると言った雫は、返事を最後にしたっきり何も喋らない。幸い、幼い花人も彼に名前以上の興味はなく、あれだけ興味津々だった割には、雫の方を見向きもせず、右手を晴とつなぎ、左手にはうさぎのぬいぐるみを抱いて、歌を歌いながら、保育園へと向かっている。
「おはようございます、花人さん!」
歩いて五分ほどのところにある小鳥遊保育園の門を潜ると、花人の担任の先生・
「おはよーめいせんせー」
「はい、今日もうさぎさんと一緒ですね!」
「おー、トモダチだからな」
芽衣にうさぎのぬいぐるみを見せつけ、靴を脱いで上履きに履き替えると、晴たちに挨拶もせずに早速教室の奥で待っている友達のところへ向かう花人。それを横目に圭から言伝を頼まれていたことを芽衣に伝えていたのだが、どうやらいつもと周りの雰囲気が違う。晴――否、雫に突き刺さる視線が眩く、甘いのだ。なんだなんだ、と思いこっそりと周りを見渡すと、晴たちと同じく、子どもを見送りにやってきた母親たちが雫の
まあ、当然と言えば当然だろう。愛想はないし、人間としての常識も破綻しきっている脳筋男ではあるが、顔だけでいうなら、そんじょそこらのアイドル顔負けなレベルに整いすぎている。――とはいえ、どこで敵が見ているか分からない以上、彼が目立ちすぎるのもいけない。ここは早く立ち去って然るべきだ。そう判断した晴は、早々に芽衣との話を切り上げる。
「じゃ、ハナ。頑張ってくださいっスよ!迎えは望月さんっスからね!」
「りょ〜かい〜!」
ぴっ!と遠くで敬礼の真似事をした花人を見届け、雫を連れて自宅への道を急ぐ。彼なりに空気を読んでいるのか、外にいる間はずっと黙り込んでいたのだが、部屋に入り気怠く息を吐きながら、そのままだった朝食の後片付けを晴が始めると、ぴったりと寄り添うように晴の背後に立つ。
「ちょっと、近いっスよ」
「おい、なんだ『雨野雫』とは」
「あー……そういうどうでも良いことは覚えてるんすよねえ……」
面倒臭いなあ、とため息を吐く。
「この平和な世界ではそういう名前が必要なんス」
GK-8なんて名前してるのロボットくらいっスよ。とガチャガチャと音を立てて洗い物をする。
「そうか」
「これからどうするつもりなのかは知んないっスけど、しばらくここにいるつもりなら、そういう常識は身につけといた方がいいっスよ。俺たちのいたところとは全く違いますから」
「そうか」
一応理解はしてくれているのだろうか。それこそ本当のロボットのように返事をした雫の意識は、既に窓の外を向いている。差し詰め、彼を追う敵が飛び込んで来ないかどうか、見張っているのだろう。
「だーかーらー、敵はそんな簡単に来ねえっスよ。暇なら皿洗い手伝ってください」