「そしたらな、ロボが現れてしーくんすげーんだぜ!」
「はいはい、怪我とかしてねーっスか?」
「おー、しーくんが守ってくれたからな」
逃げるように近所の公園から帰宅した三人。晴は砂埃だらけの服をそのままに、大怪我を負っている雫を背にして花人の安否を確認していた。当の本人はケロッとしており、日曜朝のヒーロータイムを終えた後の感想を言うように、晴のいない間に起こった雫の武勇伝を語って、恐ろしいことは何もなかったようにしている。まさに興奮冷めやらぬ状態だ。「今日寝るかな……」と晴がぼやいていたのを聞き逃さなかった。
「おい……」
「ロジさんとウラさん来るまで、お前は座って待ってろ」
「…………」
低くて圧のある声に、叱責された気分になった雫は、血を流したまま床に腰掛ける。強化人間だから、このくらいの流血な問題ないと踏まれたのだろう。実際、彼の予想通り多少の痛みはあるが平気だ。それ以上に恐ろしい目にあった癖に、ケロッとしている花人にシャワーを浴びさせて、慣れた手つきでパジャマを着せると、抱き上げた晴の体温で興奮も落ち着いてきたのか、うとうととし始めた花人を寝室へと連れていく。
「はあぁ……ようやく寝てくれたあ……」
疲れた〜……、と重いため息を吐きつつ己の肩を揉みながら、寝室から出てきた晴は、正座をしている雫とは対照的に、王様のようにどっかりと椅子に座った。
気迫が違う。花人に見せていたような厳しくも優しい笑顔はそこにはなく、まるで蛙を睨む蛇のように彼の眼光は鋭く光っている。元々目つきは悪いが、それを言ったらおしまいな気がする。ともかく、この家に来てからは見たこともないような鋭い目つきに、少しばかり動揺し、謝罪をしようと開きかけていた口を閉じると、肩を竦めて縮こまってしまった。
そんな雫を見た晴は暫く小さくなった彼を睨んでいたが、やがて力が抜けたかのように、肩でため息を吐く。もう何度目だろう。
「いいっスか。アンタが戦うことしか知らないのは重々承知なんスけど、ハナだけじゃなく一般人が一緒にいる時は逃げろ。いいっスね」
「分かってたつもりだ」
「……はあ、まあそうでしょうね。ハナがテンション上がって無茶な要求してきたんスよね。でも断ることも覚えてくださいよ。分かったっスか?」
「ああ……」
聞いたこともない晴の低い声に、黙って頷くしかない。いつもヘラヘラとしているから余計に真剣な目つきが珍しくて、じっと見てしまう。どうしてだろう。物珍しいという気持ちがあるのだろうか。いつまでも血を垂れ流している雫の応急処置をする、
「何なんスか、さっきからじろじろと」
「ああ……いや、なんでもない」
「じゃあ、そんなにまじまじと見ないでくださいっス。気が散る」
「…………」
「というか、ほんとハナが無傷だったからよかったものを……。大怪我してたら望月さんに申し訳が立たないっスよ。あいつも望月さんも普通の人間なんスから」
「ああ……すまない」
椅子から降りて、同じ目線になった晴の愚痴を甘んじて受け入れながら、一切痛みを訴えることなく処置を受けている。やめろと言ったのにそれでも尚、真顔で晴のことを見続けている彼に、痛覚はないのかと
「そこも怪我したんスか?」
「いや。怪我はしていないが、胸の内が少し痛い」
「痛い?」
「きゅっとする感じだ」
「駄目っス。…………そういうのはウラさんに言ってください」
正直、雫が心の問題を訴えてくるとは思わなかった。何となくこれ以上じっと見詰めてくる翡翠色の瞳の中に囚われているのはまずいと察知した晴は、ふいと顔を逸らして逃げるように救急箱をしまいに立ち上がる。
一方、雫といえばあからさまに嫌な顔をされて顔を背けられたにも関わらず、若干現役時代の時よりは華奢になった元相棒の背中を見詰めた。彼と一緒に行動していた頃から、時々彼に目を奪われることはあったが、こんなにも釘付けになったのは今日が初めてだ。――否、今日それを自覚しただけなのかもしれない。何故か彼の姿を見ているだけで、胸の内も頬も熱くなるのを感じた。
「ほんとなんスか、さっきからこっち見て」
「……っ、すまない」
「?アンタ、今日……」
おかしいっスよ。
振り向いた瞬間に顔を逸らしてきた雫に、そう問い掛けようとした時だった。ピンポーンとインターフォンの音が大きく部屋の中に響く。来訪者があることをすっかり忘れてしまっていた晴は、その音に対してうわ、と体を揺らしてから「はいはい」と大声で返事をして玄関へと駆けて行く。
「やっほー晴!雫ちゃん怪我したって?」
「最強が大怪我とかウケるじゃん」
「笑い事じゃないっスよ……」
まだ拭き取ってもいない廊下の血痕を尻目に、はあ、とため息を吐いた。
しかし、助かった。どこか様子のおかしい雫に気まずささえ感じていたから、ロジとウラの変わらない態度に安心する。一気に気が抜けた気がして、無意識のうちに張り詰めていた空気を
「あ、あいつなんか心に悩み持ってるっぽいんで、一方的じゃなくて話も聞いてやってください」
「おっけーおっけー!」
こっちは大丈夫だから、晴は休んでおいで。と言って、優しく彼を寝室に促したウラは、ロジと共に雫のところに向かう。きちんと閉められていないダイニングのドアを開いて飛び込むと、ぼんやりとしかしきっちりと正座をしている雫の様子を見て、ロジはあははと愉快に笑った。
「最強でもそんな怪我するんだ」
「すまない」
「謝らない謝らない!こういう治療もオレたちの仕事なんだから」
「そうそう。今回は初回ってことで特別にタダにしてあげる。特別だよ?ほら、後ろ向いて」
人間の子どものように無邪気なAIと不思議で掴みどころのないAIの二人から送られる、弾丸のような言葉に戸惑いつつ指示に従う。肌に触れるロジの人間味のないひんやりとした奇妙な感覚に、本当に彼らが人間ではないのだなと思わせる。
「……はい。体内に入ってる弾丸は全部抜いたよ。こんなの入ってて痛くなかった?」
「……痛覚はあったが、訴えるほどでも」
「さすが。そんなところも超人なんだ」
的確に処置をした後、ずいと真顔の雫に迫るロジ。それを見たウラが「ちょっとロジ!浮気!?」と悲しそうな顔で引き剥がす。
「だって興味深いじゃない。普通の肉体強化人間でも全治三ヶ月はかかるところをさ、三日くらいで治しちゃいそうなんだもん」
「もん、じゃないよ!オレ、ロジがオレ以外の人と組むって言ったらロジの脳内改造しちゃうから!」
「ふふ、大丈夫。ボクにはウラだけだよ」
ほら、むくれてないで。次はウラの番だよ。
頬を膨らませているウラの背中を押して、交代を促す。ウラは「なんだか誤魔化された気がする」と不満げにしていたが、雫のぽやんとした表情を見ると、パッと明るい顔をして彼の隣へと腰を下ろした。
「晴から聞いたんだけど、何か心の悩みでもあるの?」
「心かは分からないが……、なんだか胸の内側が痛い時がある」
「へー……。それってどんな時に、とかってある?」
「どんな時……」
ウラはこの痛みの正体に心当たりがあるらしい。体育座りをした膝の上に肘を置いた彼は、興味を持って聞いてくる。何事にも真剣な雫は、にまにまとしたウラの質問にだって真剣に考える。
いつ、どんな時に――それは、晴のことを考えている時が一番多い。最初は彼のことが気に入っていないのかとさえ思った。しかし、あの男のことが嫌いな訳がない。寧ろ、絶大な信頼を置いているのだ。だから、あの再会した夜だって彼がいる牛丼屋へと飛び込んだ。結果鬼のように怒られてしまったが……。とにかく、あの男は、雫にとって特別な存在であった。しかし、今自分が持つこの感情に名前をつけるにはとても恐ろしいような気がしてならないのだ。
そんな晴に対する感情をありのままに二人にぶつけた。しかし返ってきたのは、相変わらずにまにまとした笑いだけで。
「いやあ、青春してますなあ」
「そうだね。微笑ましい」
と、世間ではおじさんくさいと言うのだろうか。そんな調子で雫の両頬を突く二人に、雫がさらに頭の上に疑問符を浮かべる。
「まあね、雫のそれはオレが教えなくたって、きっと時間が解決してくれるはずだよ」
「時間が……」
「今は分からないかもしれないけど、晴くんと向き合えばきっとキミなりの答えが浮かび上がってくる。考えてみてよ。本能のままに」
「本能のまま……」
結局何も分からず仕舞いだった。
次の往診の時間だから、と晴の乱暴な応急処置を一通り手直ししたロジとウラは、さっさと立ち上がってこの場を去ってしまう。ぱたむ、と音がしてぽつんと一人取り残されてしまった雫が、しんと一気に寂しくなった部屋の中をキョロキョロと見回すと、のっそりと痛みに耐えて立ち上がり、二人が解決してくれなかった答えを探すために晴のいる寝室へと向かった。
花人が眠っていることがわかっているから、そっと音を立てないようにドアを開けると、セミダブルサイズのベッドの上に寝転がり、小さな花人の面倒を見ている晴の姿があった。とん、とん、と定期的に花人の腹を撫でながら、うとうととしているその様は目が伏せられており、まるで
「…………」
本能のまま。
ロジが言った言葉を頭の中で
一歩、二歩、と前に踏み出してやがて、キシと
「な、なんスか……!?」
混乱した頭が段々追いついてくると、体の上にのしかかっている雫の行動が何を意味しているのか見えてくる。しかし晴は信じられなかった。
あの雨野雫――GK-8がこんなにも欲望に囚われるなんて。それにそもそも晴は男性だ。とはいえ雫に性別という概念があるのかは不明だが……。そう頭の中で分析するが、寝惚けた頭で今の状況を躱す方法が上手く見つからず固まっていると、彼の真っ白で陶器のような、だが男らしい無骨な指先が頬を滑るからゾクゾクと肌が震える感覚がする。
「待って!待て待て待て!どういうつもりっスか!!」
すぐ隣で花人が眠っているというのに、思わず声を荒げる。
「あの二人に何を吹き込まれたんスか!?」
「二人には何も言われていない。これは俺の意思だ」
「どんな意思スか!意味分かんないっス!」
口許に近付いてくる雫の顔を押し戻し、慌てているから最早怒鳴り声のような声量で、雫の行動を抑止しようとする。しかし同等以上の力を持つ彼に到底敵うはずがない。
「んぅ……?」
二人の攻防により起こった振動のせいで、眉間の皺を寄せた花人がもぞりと動く。起こしてしまったか、とぎくりとするまでにそう時間は掛からなかった。パッと雫から顔を逸らして寝惚け眼を擦っている彼を見る。昼寝の後は意外と寝起きの良い少年はうとうとと目を開けると、隣で重なっている大人二人をじろりとひと舐めするように見ると「何遊んでんの?」とぽやぽやした声で聞いてくる。
遊んでいないし、こんな状況子どもに見せて良いものではない。とはいえ、唐突な雫の行動に混乱した晴の脳内では良い言い訳が見つからない。「えー……あー……」と適当な言葉を探していると、丁度枕元のデッキに置いてある時計が目に入った。もうこんな時間なのか。と雫を押さえながらそういうと、にっこりと引き攣った笑みを浮かべて「そ、そうだハナ」と白色の髪を撫でる。
「俺たちのことより、お前そろそろ望月さん帰ってくる時間じゃないっスか?今日は晩飯一緒に食べに行くんでしょ?」
横に寝転がったままの晴の言葉に、時計が指し示す時間を指を使って考えて暫くすると「ほんとだ!」と目を輝かせる。すると、隣で変な格好をしている二人のことなんてなんのそのだ。少しだけ興味を持っていたことすらも忘れベッドから飛び降りると、小さな足で走って隣の部屋で待つ圭の元へと去っていったのだった。バタン、と園児が立てたとは思えない大きさでドアが閉まる音が聞こえると、ギロリと雫を睨め付けて彼の肩を思い切り押し退ける。
「あのォ……何を吹き込まれたのかは知らないっスけど、こういうのは順序ってもんがあるんです。ウラさんとロジさんにそういうことも学んできてくださいっス」
聞いたこともない冷たい声に珍しく怯んだ雫の下から抜け出すと「バイト行ってきます」と素っ気なく言った晴は、部屋を出て行ったのだった。
「…………」
残された雫は胸の当たりに手を当てる。無表情のままとは思えないくらいズクズクと胸の内が悪いものに蝕まれているような痛みに、襲われているような気がした。