あの女、長澤万里江のことは忘れない。
このくだらない場所から抜けることが出来たら、かならず見つけだして復讐してやる。
あの女のせいで、俺の人生は大きく狂わされた。
受験時期を騒動で過ごし、挙句父に勘当された俺は、路頭に迷うことになった。俺が家を出ていくときに持たされたキャッシュカードを見る限り、生活に困らないだけの金は毎月振り込まれていた。母が気を利かせてくれていたのかもしれない。俺からも連絡はしなかったが、両親からもいっさい連絡はなかった。
分かっている。
父は体面を気にしたのだ。一人息子がストーカー行為のうえ婦女暴行未遂事件、父は何とか世間的にはもみ消しを図り、あの女とその両親とも和解を図った。父にとっては手慣れたものだったろう。
けれど、噂が立っては困るということで、俺を勘当した。父も案外バカな人間だった。そんなことより、俺を無事大学へやれば、世間の噂などすぐに消えただろうに。
今はもう、それはどうでもいい。俺が戻れば、両親は安心するだろう。そんなことより、長澤万里江だ。あの女は俺を嵌めた後、無事第一志望に合格し、今では名の知れた若手の英文学研究者になっている。
杉本とは青山のバーで出会った。俺が女友だち二人と飲んでいるとき、一人で入ってきて、他に空いている席もあるのにことさらに横に座った。後から思えば、はじめから俺に目をつけていて、俺をあの世界に誘い込むつもりだったのだ。
杉本から最初に与えられた仕事は、当然のように振り込め詐欺の出し子。そんなちゃちな仕事を与えられたのは屈辱だったが、これは第一関門に過ぎない、誰でも一度は通る道だと説得された。
はっきり言って、親からの仕送りではかなり苦しくなっていた。だからと言って、つまらないバイトは御免だった。そういう時、ちょうどいいタイミングで声をかけてきたのが杉本だったわけだ。
出し子など訳ない仕事だと言われた。実際、呆気ないほど簡単だった。
あらかじめ千駄ヶ谷のカフェで待機し、指示の電話が来たらその通りに動けばよいということだった。
俺は窓際の席を取り、一人で自分のスマホをいじっていた。はす向かいに東京体育館が見える。何かのイベントでもあるのか、俺とそう変わらない学生らしい男や女が三々五々、吸い込まれていくのを目で追っているとき、握りしめていた別の携帯の振動が伝わってきた。
俺のスマホとは別に預けられたガラケータイプ。
電話に出る。
加工したような声で、指示が出た。俺はバッグを持って店の外に出る。学生のような扮装、偽の学生証、免許証。そういうものが一式入っている。俺は指示通りに総武線に乗った。
新宿まではあっという間だ。新宿駅東口から地下に入る。「サブナード」と書かれた地下街だ。そして言われた通りに歩くと、ATMが複数並んでいた。どれでも空いているものでいいらしい。入るとすぐに持たされたキャッシュカードで金を下ろす。60万円。しけたものだ。
そのあと、もう一度駅に戻り総武線で中野まで行く。
やはり指定のATMがあり、そこでも下す。200万円。
俺の仕事はそこまでだ。
後は、そのまま中央線の特快に乗り、八王子まで行って京王線に乗り換え、新宿の手前の小さな駅で降りた。
ワゴン車が路地に停まっている。俺はまっすぐそちらに向かい、乗り込んだ。無言で車は発車し、俺は下した金と預かっていた一式を運転席の男に渡し、そいつは振り返りもせずに受けとって助手席に置いた。
俺は表参道で解放された。これが初めての仕事だった。
その数日後、俺は杉本と名のったあの男から再び呼び出された。杉本は背がひょろりと高く、指定のファミリーレストランの出入り口を眺めていると、すぐに目に留まった。
店員に指を二本立て、二名の待ち合わせであることを告げると、ヤツはまっすぐにこちらに来た。
店員がお冷をテーブルに置きに来、俺たちはホットを頼んだ。店員が去ると横山は口を開いた。
「この間は素晴らしい働きだったな」
俺は鼻白んだ。こんな奴に偉そうに褒められることに屈辱を覚えた。だが、今は沈黙しておこう。
「俺たちのアタマも感心してたぜ。ああ、教えてやる。アタマは『綿引』っていうんだ。本名かどうかは知れないがな。俺たち仲間のうちではそう呼ばれている」
俺はなお沈黙した。
「何だ、疑ってるのか。心配しないでいいさ、今に分かる。ともかく、俺たちとパイプをつくっておくことは君の将来にとっても得になると思うがね、横山君」
俺は身構えた。こいつは俺の素性をしっかりと調べているようだ。
「まあ、そんなに警戒するな。君も将来を諦めた訳ではないだろう? 何、ちょっとした汚点なんて時間が解決する。俺たちと君とは相互に力を貸し合える関係になれるのさ」
「そんなことより……」
俺は言いかけて止めた。さすがにここですぐに長澤万里江の件を言い出すのは弱点を見せるに等しいと本能が教えている。
だが、この件は案外すぐに解決した。
気鋭の英文学者・長澤万里江は、研究室でのセクシュアルハラスメントおよびパワーハラスメントで大学を馘首され、スキャンダラスなイメージのみを残すことになった。俺の「過去」はこれで白く塗りつぶされたのも同然。そこから俺は、『彼ら』との関係をつくることの利点に気づき、杉山の誘いに応じる決意を固めたのだ。
父親の気が変わるのももうすぐだろう。そういう見通しで俺は杉山の指示に従うことにしたのだ。