「鍋だよ、鍋! 和菓子作りにでぇじな、小豆が入った鍋だ」
小豆、と言われてもまだ二人はピンとこないらしい。揃って首を傾げる。弟分の鈍さに喜一の苛立ちが増した。
「まだわからねぇか! 小豆を砂糖と煮たら何になる!」
ようやく合点がいったらしい二人が、声をそろえて「餡」と叫ぶ。
「ああああ! 漉し餡を大量に作るから小豆が常にひたひたであるよう鍋を見てろって……」
「この盆暗三吉! ようやく思い出したか。水加減火加減がでぇじだとあれほど言ったろうが! ったく……」
「す、すんません、兄貴」
「まともに仕事が出来ねぇんじゃ、人足寄せ場に今すぐ放り込むぞ! 寅吉、おめぇもだ」
「それは勘弁を!」
寅吉は風呂敷を抱えて走り出し、三吉は頭を抱えた。
この三吉、文字通りの盆暗であった。
三吉は、幼子の頃に衣笠組の前に捨てられていた。太一郎が拾い育てた子ゆえずいぶんと可愛られた。成長し、頭がチト足らぬとわかりつつも嫁を貰ったと同時に賭場をひとつ任せたいと太一郎は考えた。しかしいざ博打をさせてみれば悉く読みをあやまって負け続けた。
「そなたは博打には向かぬ」
太一郎が、はっきり告げた。
しかしそこでやめておけばいいものを、彼はどうしたことか、博打にのめり込み、いつの間にか虜になってしまった。あらゆる種類の賭け事に手を出し、悉く負け、あっという間に莫大な借財をこしらえた。
あまりにも見事なきれいさっぱりとした負けが続き、呆れ返った嫁女は三下り半を叩きつけ生まれたばかりの子を連れて出て行き、店賃が滞って長屋からも追い出された。
借財も膨れ上がってもはや大川に身投げするしかないと思い詰め、ついに真夏の大川にどぼんとやったところを再度太一郎にひろわれた。夏の大川で水温が高かったこと、泳ぎが得意だったことが災いし、死ななかったのである。
そしていっそ壺振りはどうだとさいころを持たせてみれば、客が希望する目をぞろぞろと出してしまう始末、客は大喜び胴元は憤激。怒り狂った胴元に追いかけ回され殴られ蹴られ、脇差で喉を突かれそうになっているところを、英次郎に守られたのはつい最近のこと。
よくよく博打に向かない男なのである。
そこで太一郎と英次郎が相談し、博打とは縁もゆかりもないところ、つまり菓子部門へと回されてきたのである。
「いいか三吉っ。お絹さまに妙な餡子を召し上がっていただくわけにゃいかねぇ……わかったらとっとと鍋の傍へもどれ、すっとこどっこいが!」
「が、合点承知の助!」
三吉は転がるように台所へと走った。
小豆から小豆餡になるためには、かなり煮込まなければならない。
「弱火でことこと、だったっけ。強火でがんがん、どっちが先だったかな。どっちでもいいか……」
考え事をしながら歩く三吉の目の前を、犬猿の仲の吉蔵が横切った。彼は三吉とは対照的に体格もよく、剣術の心得もある。三吉の目が意地悪く光った。
「おう、木偶の坊吉蔵、朝帰りか」
「木偶とは何だ木偶とは……おれは大店の用心棒稼業をしてきたところよ」
「ほほう、おめぇのような悪人面が用心棒か。どっちが悪党でどっちが用心棒かわからねぇな」
「なんだと、盆暗」
「ああ? やるか?」
ごつん、と額と額を突き合わせて、闘牛のように睨み合う。
どちらが先に手を出すか――と、思われた瞬間。二人はばっと離れた。
「……三吉ぃ……」
ゆらり、喜一が立っていた。
「鍋はどうしたぁ……」
鍋? と、吉蔵も首をかしげる。
「は、はい、ただいますぐに」
「鍋だ、鍋! お前の持ち場は鍋! 俺が良いというまで、鍋にひっついてろ!」
その後三吉は駆け足で台所の鍋に張り付いた。
が。
「喜一兄ぃ、鍋が沸いてぐつぐつしやした! どうしましょう」
「馬鹿野郎、沸くのは水だ、鍋じゃねぇ」
「へぇ、でも通じたからいいかと……」
「そんな調子だからおめぇは……あっ、鍋から勝手に離れるなぃ!」
その後も、衣笠組の中を鍋という単語がやたらと飛び交う。
「兄ぃ 鍋がいい感じですぜ」
「よし三吉、砂糖を出せ……ってうわぁ、入れ過ぎだ馬鹿」
「たくさん入れたほうが親分喜ぶかな、って……」
「何事にも加減っちゅーもんが……ええい、そっちの鍋かせ!」
「へぇ!」
「って、ちがう、そっちの大鍋だ、急げ、いや走るな、走らなくて……ああああ、鍋に頭から突っ込む馬鹿があるかっ」
「ひどい兄ぃ……弟分より鍋の方が大事なんすか……」
「あたりめぇだ! ここには大事な大事な餡子が入ってんだ!」
「ひでぇえ」
三吉の泣き声が響き、太一郎が慌てて台所に駆けつけたとき、大鍋を抱えたまま転倒したと思われる三吉は、竈の傍でおいおいと泣いていた。
その横には別の鍋を大事そうに抱えた鬼の形相の喜一がいる。
「あー……喜一や、そのまま餡子づくりを続けてくれ」
「へぇ、承知いたしやした」
「三吉、どれ、見せてみ……おう、これは色男が台無しじゃな。お絹さまが心配なさるゆえ、すぐに了蘭先生のところで手当してもらえ」
言いながら懐から何某かの金を渡してやる。
よほど傷が傷むと見え、三吉は大人しく立ち去る。
「喜一、鍋と餡子を守ったのじゃな」
「……調理道具は料理人の命ですから」
うんうん、と、太一郎は頷く。
「餡の、甘き匂いじゃな。今日も楽しみじゃ」
鼻をひくひくさせながら竈の前に座り込む太一郎の背中に向かって、お任せくだせぇ、と、喜一は頭を下げる。
「諍いの元が鍋であったとは、平和じゃな」
どこか嬉しそうに、太一郎は笑う。とても、やくざの親分とは思えぬ男である。
「ところで喜一、この紐やら藁やらは何に使うのか?」