トーマス・クィンクティと忌むべきはずの蛮族達が、因縁深き太陽系に居住権を得た経緯は現在より三十一年前に遡らねばならない。
当時は世紀の婚礼より凡そ一年が過ぎていたが、女帝ウルド懐妊の報に再びメディアは湧いていた。
中でも待望の世継ぎを授かったベルニク領邦は、大いに祝賀ムードに包まれていたのである。
「今上陛下──あ、いえいえ、ベルニクの屋敷におきましては、やはり奥方様とお呼びするよう仰せつかったところでしたな」
そう言ってセバスは、己の額をぴしゃりと掌で打った。
「とはいえ、どうにも畏れ多いのですが……」
「まあ、セバス様ったら」
彼の後ろを歩くレイラ・オソロセアが楚々と微笑んだ。
ロスチスラフの娘であり尚且つ名誉近習でもある彼女はまさに雲上人だが、トール・ベルニクに幼き頃より仕え続けた忠実な家令を目上として遇した。
「来月には
御里帰り──とは、子を宿した女帝が、生家へ戻り出産する事を意味している。
母子の安全性に配慮した慣例であると同時、新しい命が帝国の後継者ではなく、あくまで生家の継承権を持つ存在に過ぎないと示す為でもあった。
オビタル帝国は銀河の最高権力者が血脈の澱みに陥るのを嫌ったのだ。
「ほんの
なお、本来ならばウルドは、生家ウォルデンへ帰るべきなのだが、政治情勢の都合からベルニクへ御里帰りする次第となっていた。
「たいそう喜ばしくもあり、それでいて不安の尽きぬ泉と申しましょうか──」
と、セバスは汗をチーフで拭きながら応えた。
「ふぅ、ともあれ、ここより先が、奥方様、御側衆、乳母、傅役方々に用意させて頂いた屋敷の区画に御座います」
離宮を敷地内に建設する案もあったが、女帝ウルドは「無用為」と一言で切って捨てた。
未だ帝国は二つに分断され、スキピオ率いる新たな船団国の動静も不穏である。尚且つ、
かような情勢下ゆえに、大衆から
結果、屋敷の中に新妻一行が暮らす区画を設ける運びとなった。
「ご指示通り、中庭を望めるテラスもご用意致しました」
「ええ、有難うございます」
「後は──」
謁見や公務の合間、テラスで茶を嗜みながら近習と語らうのが、ウルドの習慣となっていたのだ。
女帝の立場を鑑みるなら、
「──ストレッチルーム、瞑想部屋、細剣術稽古場、茶室──は、オリエンタルな内装に仕上げておりますぞ──また、奥方様への来客用施設としまして、舞踏室、晩餐室、遊戯室並びにシガールームも手配致しました」
女帝の立場を鑑みるなら、
「細剣術のご指南につきましては、グリンニス・カドガン伯が名乗りを上げておられまして……」
「あ、あら、まあ──困りましたわね」
「はい……。その、お断りする訳にもいかず」
と、セバスは頭を下げた。
グリンニスが忠誠を誓った事で嘗ての様な剣呑さは両者の間に無いが、トールを巡って微妙な隙間風が流れている点は相変わらずなのだ。
「グリンニス伯は無下にして良い方ではありませんものね。フェリクスに戻り次第、適切なタイミングで私から陛下にお伝え致します」
「面目御座いません」
「いえいえ。それより、こうなりますと、例の手配が益々重要になってきますけれど……」
「ご安心下さい」
セバスの瞳が妖しげに光った。
「坊ちゃま──トール様の書斎、執務室、独身時代の居室、その他関連する十三の部屋全てに、奥方様の居室と繋がる隠し通路を設けております。さらに、奥方様の書斎にはトラッキングシステムの全情報が転送されるよう──」
ウルドは銀河で最も猜疑心の強い女だったが、鉛の指輪がある限りトールの浮気心を疑うつもりは毛頭無い。
彼女が警戒しているのは、権力という樹液に群がる虫である。
頭が回り胆力もある男であるのは間違いないが、どうにも対人関係においては隙が多いように思えていたのだ。
「後はプールにも監視網を──んん、おや、何事でしょうな?」
<< いや、唐突に申し訳ない。セバス殿 >>
照射モニタに写るのはトジバトル・ドルコルである。
新たにベルニクに組織された親衛隊の制服を纏う大男の姿に、長らくプール清掃員として接してきたセバスは未だ違和感があった。
「私は構いませんが──、ええと、確かトジバトル殿はトール様とオソロセア領邦の式典に列席されているはずなのでは?」
トジバトルの立っている場所が何れかの船内であり、尚且つトールハンマーや少女艦隊のそれでない事はセバスにも分かった。
その上、セバスの少ない知識に照らし合わせてみても、老朽艦と思しき内装である。
<< いやはや、俺もそのつもりだったんですが……。途中で妙な足止めを喰らいましてね。閣下から後の差配はよろしく──と、仰せつかった次第です >>
「はあ」
いったい自分と何の関係があるのだろうかと、セバスの返事も曖昧になった。
<< 例によって、屋敷に厄介者が──いや、閣下は客人と言われましたな──兎も角そいつが増えちまうんですよ >>
「なるほど、そういう話でしたか」
客人を迎える準備ならば、家令の出番である。
「それで何名ほどでしょうか?」
広大な屋敷と良く訓練された使用人達がいる限り、何十人、いや何百人の客人でも饗す事が出来るという自負があった。
<< ちょいと、本人の口から説明させますよ。ほら、こっち来い。いいから来いって。ウジウジするんじゃねぇッ! >>
トジバトルに首根っこを掴まれ、小太りで隻眼という異相の男が姿を現した。
<< あ、ど、どうも。そのぅ、多分、初めまして──ですよね? >>
ベルニクとは浅からぬ縁のある男だが、セバスやレイラとは面識が無い。
<< 僕はトーマスと申します。わ、若──フリッツもお世話になってると思うんですけど…… >>
異母弟フリッツ・ベルヴィルは、トールの推薦を受けて帝都フェリクスの士官学校へ入り、正規ルートで軍人になろうとしていた。
<< 色々あって船団国に行ったんですが、やっぱり、怖くて逃げて来たんです >>
トールの好意から、本当の母を訪ねるべく船団国へ渡ったのである。
<< あの国はスキピオっていう人のせいで無茶苦茶に…… >>
と、彼の事情を一通り聞いたトールは、難民として受け入れると判断したのだ。
ケルンテンにおけるホルスト・ジマの奸計に、トーマスが関わっていたとはトールとて知る由もなかった。
「なるほど。それは大層な苦労をされましたな」
と、早速セバスは同情心を抱いている。
<< は、はい。それで、僕と仲間達を── >>
対人関係に隙がある、という新妻の判断は実に正しかったのだろう。
<< 二千人ほど…… >>
◇
「おらおら、野郎どもッ!!」
魔改造に魔改造を重ねた老朽艦、グレートホープ号のブリッジでトーマスは雄叫んだ。
「今こそオイラ達が受けたアチチな恩義を返す時だぜええええい」
危険な地球圏に入るのは、まさに漢に相応しい行為に思えた。
「トモダチのトモダチのトモダチを助けるんだ」
トーマスの友達はトジバトル。トジバトルの友達はトール。トールの友達は──、
「はぎゃ、あ、そおれっ!! ♪おっとこぉ、おとっこぉぉ、漢は──♪」
深く考えると頭が痛くなる。
思い出してはいけない事を思い出すからだ。
故にトーマスは歌い続けなければならない。笑い続けなければならない。
漢である為に──。