ジャンヌ・バルバストルが向けたサーベルの切先を喉元に受けてなお、生粋の文官であるはずのロベニカは些かも顔色を変ずる事がなかった。
彼女は元統帥府首席補佐官というトールの最重要側近でありながら、公職追放や
「貴様が数多の恩義を忘れ閣下の重臣方々をルチアノに売ったのは、その下らん徽章を身に着ける為か?」
ロベニカ・カールセンはオリュンポス評議会議員であり、尚且つ警察機構を統括する警視委員会委員長までをも兼任していた。
彼女が政敵から「議長のお気に入り」と揶揄され、他方のいわゆるベルニク残党からは「裏切り者」と断罪されてきた所以である。
「いいえ」
両者は旧帝都エゼキエル留学時代からの親友であり、互いの立場でベルニクの発展に身を捧げる仲間でもあった。
英雄トール・ベルニクの歩みが続く限り、彼女達も歩みを止めるつもりなどなかったのだが──。
「でも、信じて──なんて言うつもりも、何より資格が無いのも分かっている」
と、言いながらロベニカは、ボディコンシャスな濃紺のスーツに着けられていた小さな徽章を外し床へ放り投げた。
不意打ちはとうに諦め傍観者となっていた船長だが、自分の足元に転がってきたそれを拾い上げると小さな口笛を吹く。
──紅いハックルベリィ……。
──おいおい、誰かと思えば、山岳派の評議会議員様だったのかよ。
乗っ取り犯がまさかの要人であった事に気付いたのだ。
「けれど、現在の状況に私が満足していないのは確かよ」
オリュンポス評議会は大断絶以降の混乱を終息させ安定的に統治してきたが、経済的に収縮する一方の閉じた世界は希望を生み出さない。
尚且つ、異種に蹂躙された地球圏を諦め、太陽系に残された領域が侵されないよう怯えて暮らしていかねばならないのだ。
これらの理不尽な状況を大衆に納得させる最も単純な方法として、トール・ベルニクに全ての責任を負わせる事にしたのである。
グレンの思想的背景もそれを助長したのかもしれない。
「私は月面基地へ行く」
月面基地跡地へ向かう途上、海賊ブラックローズと遭遇できるか否かはロベニカにとっても賭けだった。
そもそも、ブラックローズ一味が地球圏を根城としている確証など無かったのだ。軍と公安が血眼に探しても見付けられない──という状況証拠からの推測に過ぎない。
無論、地球圏へ彷徨い込んで救難信号を発する元軍用機は、ジャンヌにとって格好の撒き餌になるだろうとの読みはあった。
そして、実際に釣り上げたのだ。
「月へ──だと」
「ええ」
「月面基地の状況を理解しているのか?」
「──そのつもりよ」
地球の地表世界、月面、ベルニク邦都──現在は第三都市と呼称されているが──には南極百足が捕食者として君臨しており安全な場所などどこにも存在しない。
「貴様が百足に喰われたとて、ヴァルハラへ渡った数十万余の将兵は浮かばれん」
トールはオソロセアとの盟約に従い、少女艦隊と中央管区艦隊の一部を引き連れてファーレン遠征に向かったが、ジャンヌ・バルバストルを始めとする大半の主力部隊を太陽系に残した。
グノーシス船団国の動静と共和主義を標榜する
その結果、大断絶直後に発生した南極百足と死闘を繰り広げたのが、月面基地に駐留していた中央管区艦隊の将兵達となったのだ。
月面防衛戦において中央管区艦隊は壊滅的な打撃を被ったが、南極百足の侵攻を少なくとも地球圏で喰い止める事には成功したと評価出来よう。
三次に渡る討伐戦の失敗を経てもなお、異種が地球圏から先へ版図を広げようとしないのは、嘗てのベルニク将兵が見せた獅子奮迅の戦いぶりにあったとされている。
「英霊を弔う気持ちはあるけれど、異種の餌になるつもりは無いの。だって──」
故にこそ、ロベニカは白き悪魔を巻き込もうと企図したのだ。
「貴方が、私を護るから」
「──」
瞬間、純然たる殺意を感じ取った船長は思わず瞳を閉じた。美しい女の首が落ちる様を見たくなかったのである。
「──祈れ」
サーベルの切先で軽く顎を叩いた。
数秒の慈悲を与えた後、ジャンヌは嘗ての友を殺すべく──、
「待って」
と、ロベニカは懸命に震えを抑えた声音で相手を制すると、スーツの袖口に忍ばせていた円筒デバイスを眼前に差し出した。
「私を殺すのは、これを見てからでも遅くない」
メタリックな外観の円筒デバイスは、EPR通信を持たないグノーシス船団国が、ポータル経由の超遠距離通信に利用してきた記録媒体である。
物理的な輸送を必要とする為、当然ながら光速度の限界があった。
「この期に及んで貴様は何を──」
「そ、その、取り込み中にスマンな」
いつの間にか二人の女から離れ、舷窓に額を押し当てていた船長が背中越しに口を挟んだ。
「お嬢さん方に伝えたい事があるんだが……」
と、彼が指差す先の宇宙空間に、淡い光を放つモノリス状の天体が回転していた。
不正規旅客船並びに接舷中のブラックローズは、少なくとも第三宇宙速度で航行している為、モノリスも同量の推進力を備えているのかと言えば事実は異なる。
「あれが、百足の門なんだろ?」
獲物の慣性系に忍び込むのだ。