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第8話 オリュンポス。

 火星におけるテラフォーミングの歴史はオビタル帝国の誕生より遥かに古い。


 遠く古典文明末期にまで遡る必要がある。


 光速度の壁に阻まれていた古典人類は、新たな大地を太陽系内第四惑星に求める他なかったのだ。


 凡そ千三百年という歳月を要した惑星エンジニアリングの結果、ようやく火星の大気組成はヒト属にとって好ましい状態となった。


 ──とはいえ、この場所は例外だが……。


 標高二万メートルを超えるオリュンポス山頂近傍で、全地形対応車両から降り立ったグレン・ルチアノは、己の身を護るものが防護服のみである事を否が応にも意識せざるを得なかった。


 火星の酸素濃度上昇により形成されたオゾン層が地表面を保護しているが、遥か上空の成層圏はヒトが足を踏み入れるべき場所ではないのだ。


 だが、そんな場所に奇妙な構造物が存在する。


 << 総帥。こちらへ >>


 頭部ヘルメット内のFAT通信ユニットから響く音声は、ニューロデバイスとは異なり耳障りな感触を残した。


 << ──分かった >>


 と、道先を案内する部下へ短く応えたグレンは石造りの大階段へ向かった。


 ここから先はサンクチュアリとされており、無骨な全地形対応車両で乗り入れる事は許されていない。


 ──まさか、こんなものを引き継ぐ羽目になるとはな……。


 巨大コングロマリット企業であるルチアノグループをグレンが継承したのは、大断絶の悲劇より数年前の事である。


 とはいえ、未だ「総帥」と呼ばれる事にも、ピュアオビタルを憎み続けた父バイロン・ルチアノの喪失にも馴染めていない。

 全てが遠い世界の出来事の様であり現実感を伴わないのだ。


 その理由は分かっていたのだが──。


 << ささ、どうぞ。あ、いえ、真ん中ではなく左右何れかをお上がり下さい >>


 面倒だな──という言葉を飲み込んでグレンは言われた通りにした。


 ここの住人がヒト属を圧倒する存在であるのは明らかであり、無闇に機嫌を損ねたところで得るものは何も無い。


 憮然とした表情でグレンは階段の右端を進んだ。


 長い階段の先に、大気中の散乱光によって星が見えない黒い空を背景として、いわゆるドーリア式の柱に囲まれた神殿が鎮座している。


 極端な温度変化とジェット気流に堪え、強い放射線と紫外線に曝されながらも、石造りの建造物は僅かな劣化の兆候すら示していなかった。


 この奇景が観光名所にならずに済んでいるのは、オリュンポス山そのものがルチアノ家の所有する不動産である事と、一般的なオビタルの地表世界への無関心さ故である。


 ──まあ、真実を知ったところで、誰も信じないだろうが……。


 彼自身も、父から全てを聞かされた時、即座には信じる事が出来なかった。


「お、よく来たな。新米」


 大階段を登りきった先で、黒髪の少年が巨大な柱に背を預けている。


 重装備の防護服に包まれたグレン一行とは対照的に、その少年は柔らかな生地を重ねた白い衣服を纏っており胸元からは素肌を覗かせていた。


「ルチアノ家の来訪を歓迎するぜ」


 グレンはバイザーに映るモニタで周囲の外気温がマイナス50℃である事を再確認し、脳裏をよぎった防護服を脱ぎ捨てる妄想を掻き消した。


 << 感謝する >>


 外部スピーカーから、減衰対策を施した音波が発せられる。


 << 私がグレン・ルチアノだ >>


 と、彼が差し出した厚いグローブに覆われた右手を、少年は不敵な笑みを絶やす事なく素手で握り返した。


 断熱素材を通してなお伝わる握力が、ホロスコープ映像や幻覚ではないと認識させる。


 その事実は圧倒的強者に対する怯えをグレンに抱かせたが、ひれ伏したくなる衝動を鋼の意思力で抑え込み敢えて胸を張った。


 ルチアノ家代々の妄執を実現するには、相手が神であれ悪魔であれ、対等な立場で取引を成功させなければならない。


「俺の名前は、あんたの親父から聞いてるんだろうが──」


 そう言って少年は目を細めた。


「タクヤ・アルファだ」


 グレンの右手を離さず言葉を続けた。


「お前の望みを叶えてやる」


 ◇


 ともあれ、こうして三十年が過ぎた──。


 概ねはタクヤ・アルファの助言に従い差配してきた結果、大断絶後の危機的状況を脱して狭い世界は一定の安定を保っている。


 また、政治力と経済力を駆使してベルニク統帥府の権威を失墜させ、トール・ベルニクに全ての災厄の汚名を着せる事で、グレンの望む共和主義的素養がオビタルに芽生えつつあった。


 無論、現状は未だ評議会による寡頭政治体制である。


 ──”ま、当面は教育に励めや。政治的不自由っていう極楽を享受してきたバカどもなんだからさ。"


 と、グレンにも自覚のある金言を与えた少年は、三十年前に出会った頃と変わらぬ風貌で眼前に立っていた。


「久しぶりじゃねぇか、グレ公」


 << うむ >>


 FAT通信、書簡、使者──何れの手段でもタクヤ・アルファの助言は得られない。


 オリュンポス山のなだらかな勾配を辿って神殿を直に訪れる必要があるのだ。


 << しるしが現れた >>


「ほう?」


 << 故に一刻を争う >>


 いかなる事態に陥ろうとも、グレン・ルチアノは箱庭の如く狭い世界と、愛する女を守らねばならない。


 その為に頼む相手が、


 << メーティスの神託が必要だ >>


 量子の狭間に潜む悪魔であったとしてもである。

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