「あれが──今の月面基地か──」
ブリッジモニタの映像をぼんやりと眺める船長は、幾分か感傷的な気持ちになっていた。
これから、南極百足が徘徊する宙域で月面へ降下するのだが、ブラックローズに船の制御権を完全に奪われているため何もすることがないのだ。
仮に南極百足に襲われたとしても、彼が能動的に出来る事は何一つ無かった。
「懐かしそうね、ダドリィ中尉」
ジャンヌはブラックローズに戻っており、手持ち無沙汰となったロベニカも客席からブリッジに場所を移していた。
二人は乗っ取り犯と人質という関係性から、ブラックローズに生殺与奪を握られた同志という立場に変化している。
故にロベニカは、不正規旅客船の船長を退役軍人として遇した。
「統帥府のお偉いさんから、中尉なんて言われるのは、何だかこそばゆいぜ……」
「──昔の話よ」
「まぁ、俺だって昔の話さ……。ただ、俺の所属は木星方面管区だったから、月面基地に来る事は稀だったよ」
「そう」
ロベニカが月面基地を訪れたのも遥かな昔日の事だ。
だが、時代に抗う孤独な女を支え続けて来たのは、あの日、あの場所で見送った軍神トール・ベルニクの背中なのである。
「けど、偶に来た時は妙にテンションが上がったもんさ」
「どうして?」
「多分だけど、俺たちゃ強くなりやがるぞ──って、はっきり分かったからだろうな」
それは、月面基地の艦艇数やスタッフの活況ぶりだけが原因ではないだろう。
各種経済指標は高い成長性を示し、生活の質の改善が有意に実感され、尚且つ若き英雄が未来を語った時代が背景にあるのだ。
「フフ。そうね、分かるわ」
ヒトがヒトに従う理由は善悪に依らない。
太古の昔、イエス・キリストに従った大衆とて、彼が善人だから──誤解を怖れずに言えば善人と断言する史料は無い──従ったわけではないはずだ。
ローマ帝国に対する鬱屈した気持ちを、「ワクワク」に昇華させてくれたからだろう。
「何だか──ワクワクしたわね」
だが、今。
光速度の壁と、南極百足の存在が、大きな未来を語る事を為政者に許さない。
オリュンポスに降臨した先史時代の悪魔、人工知性体群メーティスが提供するのは、多数の制約を課した安全のみである。
「ドキドキもさせられたけど……」
故に、ロベニカが求めるのは、太古の神々や先史時代の悪魔ではない。
英雄である。
◇
「──どうしたの?」
不正規旅客船のタラップを降り立ったロベニカと船長──ダドリィを待っていたのは、領邦軍時代の制服を纏う海賊達だ。
彼等の衣装に
ブラックローズの見事な機動や南極百足との戦いぶりを考え合わせると、艦艇から人員に至るまで整備を一切怠ってこなかった証左でもある。
トロヤ小惑星群での海賊行為だけで賄える訳が無いので、ブラックローズに経済協力をしている勢力が幾つか存在するはずだ。
「安心して。当面、貴方を殺すつもりはないわ」
外形的には裏切りに見えるロベニカのこれまでの行動を、直情的で激情家のジャンヌ・バルバストルは決して許さないだろう。
とはいえ、トールの帰還が叶うのならば、あるいは……。
「いいえ。ただ、一瞬、昔に戻った様な気がして立ち止まっただけよ」
「──そう。じゃあ、付いてらっしゃい」
「でも、どこへ?」
慣性制御と空気組成は保たれているが、南極百足に喰われた艦艇の残骸があちらこちらに無惨を晒している。
また、基地管制塔や各種施設は南極百足の巣穴になっており、時折、轟音と共に廃墟から蠢き出た百足の大群がゴーストへ飛び込んで行く様子が見えた。
まさに、月面基地
ロベニカには、目指すべき場所がここにあると思えなかったのだ。
「不思議に思わない?」
「何が──あ──」
郷愁を誘った領邦軍の制服──。
つまり、ジャンヌ達はパワードスーツを装備していない。
だが、ブラックローズとのランデブー直後だけでなく、降下直前も再び南極百足に襲われている。
無論、手練の戦士達が殲滅していたが……。
そうであるにも関わらず、降下したこの場所で、南極百足に対する警戒を完全に解いていた。
これが意味するところは──、
「ゴーストと南極百足に汚染された地球圏で、この半径ニキロメートル圏内のみがエアポケットになっている」
タラップから降りて、数十メートルの地点だ。
ジャンヌが手元のデバイスを操作すると、微振動と共に床が左右にスライドし、ゆっくりと下方から巨大な構造物が迫り上がって行く。
「理由は分からないけれど、南極百足はこれを──彼女を避ける傾向があるの」
「彼女?」
ロベニカの問いに、ジャンヌは答えなかった。
「だから、私は閣下からの贈り物だと思ってきたのだけれど──」
「こ、これは……」
月面防衛戦敗退以来、消息不明とされてきた存在である。
「貴方はどうかしらね?」
旗艦トールハンマーが、月面基地地下シェルターより浮上した。