「死ねばいいんじゃないか?」
試合後の帰りのバス。重い沈黙のなか、隣に座る三浦信二がぽつりと呟いた。
「……は?」
「だからさ。そんな顔してるくらいなら、いっそ死んじまえよ」
一瞬、冗談かと思った。いつものように照れ隠しで毒を吐いてるのだと。だが、その声には温度がなかった。ガラスに映る夕焼けとともに、信二の表情は凍りついたように動かなかった。中学から六年。バッテリーとして、勝って、負けて、喧嘩して、それでも並んできた相棒。その彼が、こんな目で俺を見るのは初めてだった。
今日、久しぶりに負けを経験した。
いや、負けた経験は今までにも何度かある。が、それはあくまで野球のルール上であって、負けても反省点や自分自身の成長を感じることはできる。今まで、そういう前向きな負けしか経験していなかった。が、今日は全面的な敗北だった。
甲子園予選の決勝。第二甲府高校対、甲斐学院。
全国でも名のある強豪を相手にして、それでも俺は希望を抱いていた。
調子は悪くなかった。肩も軽かったし、気持ちもポジティブだった。しかし……。それらは嘘。自分に吐いた、最悪の嘘だったと今だと思う。経験したことのない重圧が、静かに、けれど確実に、俺の心を削っていった。
試合中、何度も胸を叩き、深呼吸をして、自分を鼓舞して、それでも足りなかった。
一球ごとに生まれる小さな違和感。それを修正できぬまま、やがて大きな穴になった。
結果だけ見れば、悪くなかったか。数字はそこまで崩れていないし、周りの反応も、「良く一年生で投げ切った」と誉めてくれた。
だが、自分ではわかっていた。あれは俺じゃない。俺じゃない、別の投球。俺の全力では無かった。そして、それを誰よりも見抜いていたのは、やはり親友であった。
「俺も反省点はある。でもな、その顔はやめろ」
信二がちらと俺を見て、続ける。
「一年のくせに、そんな顔していいはずがないだろ」
バスの奥から、すすり泣く声が聞こえる。
三年の先輩たちの嗚咽。最後の夏が終わった音だった。
俺はそれを聴きながら、ただ、黙っていた。向き合えなかった。試合中も、試合後も、自分の投球のことばかりを反芻していた。それが、信二には許せなかったのだろう。
その事実に気づいた瞬間、身体がずしりと重くなった。
肉体が急に重たくなったのか、それとも重力そのものが変わったのか。いや違う。これは、責任だ。もしかすると、罪悪感という名の質量かもしれない。
肩に、胸に、心に。重さが降ってくる。
その重みに耐えきれず、俺は深くため息をつく。まるで、拭いきれぬ何かを流すように。それでも、心が軽くなることはやはりなかった。
でもまたその親友は、そんな俺の気持ちを察したのか。信二がさりげなく、でも先ほどより優しく語り続けた。
「まだまだやることはあるが、それは、やれることがあるっていい意味でもある。伸びしろだな。まだまだ頑張ろうぜ。そしてそれ以外でも、良かったこともある。七回のあの打席。落ち着いてよく打てたな、金丸さんのあのボールを」
頭の中が動画のように場面展開する。〇対三。七回、ツーアウト三塁での俺の打席。
それまで金丸さんの投球に封じ込められ、まともにバットに当てることすらできなかった。自分自身の調子の悪さもあるが、気づけば、中学時代に植え付けられた苦手意識がじわじわと蘇り、さらに焦燥感が胸を締めつける。
「あぁ……。あれね」
「あの場面。今日の大気なら、正直代打でも良かったと思う」
「あはは、確かにな。でも……あれだな」
「あれ」
「……うん。応援歌」
「応援歌?」
このままじゃ、やばい 。そう思った瞬間、トランペットの音に意識が向いた。
初めての経験だったと思う。打席で音に反応するなんて。
応援席から吹き抜ける音色は、いつもと少し違っていたように思う。けれど、それが妙に心に馴染んだ。張り詰めていたものが、ふっとほどける。呼吸が深くなり、握るバットが手になじむ。
何かがはがれるように、俺は急に冷静になった。そして唐突に、今までの金丸さんとの思い出を振り返りつつ、感覚的にこの人の全てを理解したような感触を持った。そして、その感触は、一つの読みを俺に与えた。直感という言葉でしか表現はできないが、でも確かな自信があった。あの人なら、きっと、自分の得意な球で俺を屈服させにくる。誘いを裏切った俺を、力でねじ伏せる。絶対に。
「あぁ。ランナー三塁の場面。吹部の応援だと、普通ならチャンステーマだろう。けど、なぜかあの時は俺の応援歌の『必殺仕事人』。それに、あのトランペット。いつもと違う音だったけど、不思議としっくりきた」
俺の話が意外だったのだろう。信二はほんの一瞬だけ目を見開き、ふっと口元を緩めた。
「お前、試合中そんなこと思っていたのか」
「いや、たまたまだわ。でも悪い感触はしなかった。なんていうか、空気が合ってた」
「空気ねえ。そんなことあるのか……。あ、そういえば、きっとそのトランペット、たぶん俺のクラスの千紗だな」
「誰それ? てか、ソロって普通三年生がやるんじゃないのか? 二年が吹いてたのか」
「知らねーよ。吹部のことなんて、こっちが分かるわけないだろ」
「ふーん……まあ、興味ねえけどな」
そう言いつつも、信二はスマホを取り出して、何枚か画面をスワイプしながら言った。
「学園祭のときの写真。この子」
衝撃とは、こういうことを言うのだと思った。今までの責任感も罪悪感も疲労感も、その全ての感覚が無くなった訳ではない。けれどその瞬間、心のなかで鳴っていた全てのノイズが、一つの音にかき消された。トランペットのような、まっすぐで、澄んだ音だった。
画面に映っていたのは、吹奏楽部のステージ衣装をまとった少女。輝くような笑顔と、自信に満ちた佇まい。目が離せなかった。その瞬間、きっと俺は落ちたと思う。
自分でも驚くほどの反応だったのだろうし、信二も驚いていただろう。こいつ、このタイミングの、ここで落ちるのかと。けれど、彼はいつもどおりの調子で、少しだけ苦笑いを浮かべて言った。
「やめとけ。部活命で、恋愛に興味ないよ、千紗は」
「……うっせぇ、そうじゃねぇよ。ただ、珍しい衣装だなって思っただけだ」
言い訳がましくそう返しながら、軽く信二の肩を小突く。けど、信二はいつもの調子でニヤニヤしながら、「はいはい」と茶化してくる。それにさらにムカついた俺は、そっぽを向いて、信二と反対側の窓の外を見た。
夕日に染まる甲府の空。
俺たちの夏は、終わった。思ったよりも、あっけなく。
けど、
(橘千紗先輩……)
俺の何かが始まった。
そして、終わりの始まりであったとも、今だからそう思える。