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17の夏
17の夏
夏坂ナナシ
現実世界青春学園
2025年01月26日
公開日
14.9万字
完結済
2016年。甲子園を目指す高校球児・輿水大気は、吹奏楽部の先輩・橘千紗と、台風の朝に出会う。 運命のように惹かれ合ったふたり。しかし、ある出来事をきっかけに、物語は静かに動き出す――。 2027年。高校生の橘春は、生徒会長候補の小野寺渚と出会う。 「映画を撮って、国際映画祭に出そう!」 渚が手にしていたのは、春が“ある人”をモデルに綴った、一冊の小説だった。 交差する〈あの夏〉と〈この夏〉。 音楽と映画が、失われた時間を繋ぎ直していく。 10年間の想いを紡ぐ、切なくも希望に満ちた“青春長編”―― その前編となる、2017年の物語。

プロローグ

二〇一六年七月二十四日

「死にてえなら、せめて一人で死ね」

 試合後の帰りのバス。重い沈黙の中、隣に座る三浦信二が、ぽつりと呟いた。

「……は?」

「そんな顔してるくらいなら、いっそ一人で死ねって言ってるんだ」

 一瞬、冗談かと思った。いつものように照れ隠しで毒を吐いてるのだと。でも、信二の目には温度がなかった。

 中学から四年間。バッテリーとして、勝って、負けて、喧嘩して、それでも並んできた相棒。その彼が、こんな目で俺を見るのは初めてだった。

 今日の甲子園予選決勝。第二甲府高校対甲斐学院。

 全国でも名のある強豪を相手にして、調子は悪くなかった。肩も軽かったし、気持ちもポジティブだった……と、思っていた。

 中学と違う、経験したことのない重圧。

 思考は冷静であったと思っていたが、指先の感覚があったのだろうか。投げても投げても、調子は上がらず、むしろ水を吸い上げた服のように重くなっていく身体。必死になるほど、その重みは増していき、気が付いたら、修正できぬまま、力任せで投げていた。

「……一年ながら、よく投げた。数字も悪くないって言われただろ? でもな、その顔は、マジでうぜえよ」

 信二がちらと俺を見て、吐き捨てるように言う。

「一年のくせに、思い上がりすぎだわ」

 バスの奥からすすり泣く声が聞こえる。

 三年の先輩たちの嗚咽。最後の夏が終わった音だった。

 俺はそれを聴きながら、ただ、黙っていた。

 向き合えなかった。

 試合中も、試合後も、自分の投球のことばかりを反芻していた。それが、信二には許せなかったのだろう。

 その事実に気づいた瞬間、胸の奥がずしりと沈んだ。

「……ごめん」

 ようやく絞り出せたのは、その一言だけだった。いや、それ以上の言葉なんて思いつかなかった。

 すると信二は、ため息をついて肩をすくめる。さっきまでの冷たい目が、少しだけ和らいでいた。

「……まあ、まだまだ、やることはあるだろ。けど、それは“やれることがある”ってことだ。伸びしろだよ」

 言いながら、信二は窓の外を見た。夕暮れが、街をオレンジ色に染めていた。

「それに……七回のあの打席。よく打ったな、金丸さんのインロー。あれだけは褒めてやるよ」

 頭の中が、動画みたいに再生される。

 〇対三。七回、ツーアウト三塁での俺の打席。

 それまで金丸さんの投球に完全に封じ込められて、バットにまともに当てることすらできなかった。調子の悪さだけじゃない。中学時代の紅白戦で植え付けられた苦手意識が、じわじわと胸を締めつけていた。

「あぁ……。あれな」

「あの場面。俺は大気に代打が出ると思ったわ」

「うっせぇな。でも……あの時は、あれだ」

「あれ?」

「……あー、”あれ”だよ」

「なんだよ”あれ”って」

「……応援歌、」

「はぁ?!」

 このままじゃ、やばい 。

 そう思った瞬間、何故かトランペットの音に意識が向いた。

 初めての経験だったと思う。打席で音に反応するなんて。

 でも、応援席から吹き抜ける音色が、妙に心に馴染んだ。

 張り詰めていたものが、ふっとほどける。

 呼吸が深くなり、バットを持つ指先に感覚が戻る。

「あぁ。ランナー三塁の場面なら、普通はあのチャンステーマだろ?」

「あー、あの無限ループみたいなやつ」

「だろ? でも、あの時だけは俺の応援歌だったんだよ」

「マジかよ……全然気づかなかったわ」

「しかも、あのトランペット……なんか、いつもより、音が違ったんだよな……」

 信二は一瞬、目を見開く。

 それから、ふっと笑った。

「おめー……試合中にそんなこと考えてたのかよ……」

「いや、たまたまだわ! でも、悪い感じしなかったんだよ。なんつーか、空気が合ったっていうかさ」

「空気ねぇ……気色悪っ」

「マジで言ってんだよ! でも、ほんと助かったわ。吹部には感謝だな」

「ペットねぇ……。あー、そういや今日のソロ、千紗がやるって言ってたわ」

「誰それ?」

「俺と同じクラス。橘千紗」

「知らねーよ。てかさ、ソロって普通三年がやんじゃねえの? 二年が吹いてたのかよ」

「知らねーよ! 吹部事情なんか、わかるか。まあ、千紗は部活命で、楽器も上手いらしいよ」

「ふーん……」

 すると信二は、スマホをポケットから引っ張り出す。何枚かスワイプして、画面を突き出してきた。

「大気が応援歌変えない限り、来年も世話になるだろ? 顔くらい覚えとけよ。今度紹介してやるわ。ほら、学園祭の写真。これ」

「……ったく、そういうのはめんどくせぇんだよ……」

 言いかけた瞬間、息が止まった。

 スマホの小さな画面に映る、一人の少女。

 吹奏楽部のステージ衣装。

 高く結んだ髪。

 きらきらと光る汗。

 そして、眩しすぎるくらいの笑顔。

 その笑顔を見た瞬間、心臓が暴れた。

 ズキュン、じゃなくて、本当に「ドンッ」と鳴った。

 今まで野球しかなかった胸の真ん中に、いきなりストレートがぶち込まれたみたいだった。

 目が離せなかった。

 見てるだけで、息が苦しくなる。

 熱い。顔どころか、指先まで火がついたみたいに熱い。

 視界が狭くなる。耳がキーンとする。

 鼓動がうるさくて、自分の呼吸すら聞こえない。

 俺の見ている世界が、何か決定的に変わった。

「……おい?」

 信二の声が、遠くから聞こえる。

「あ……」

 なんとなくしか返事ができない。口が動かない。

 ただ、写真を見つめていた。

「おまえ、まさか……」

「あ……いや……」

「は? おまえ……マジで?」

「ち、ちげーし!!」

 思わず叫ぶ。

 でも声は裏返って、情けないほど震えていた。

 信二が笑い出す。

 その声が、妙に優しく響いた。

「……負けた直後に恋って、おめーらしいわ……」

「うるせぇ!!!!」

 顔が熱くて、どうしようもなくて、思わず窓の外に顔を向ける。

 試合の疲労感は残っている。

 まだまだ課題だって山積みだ。

 そして何より、三年生の先輩方への罪悪感だって、無くなった訳ではない。

 でも、目の奥にはあの笑顔が焼きついて、離れない。

 橘千紗先輩。

 名前なんて、今初めて知ったのに。

 鼓動が速すぎて、ちゃんと呼吸ができない。

 でも、それが気持ちいい。

 苦しいのに、笑い出したくなる。

 泣きそうなくらい、嬉しい。

 夕焼けに染まった街が、やけに綺麗に見えた。

 試合に負けて、夏が終わったはずなのに。

 でも今、俺の中では別の夏が、確かに始まった。

 そして、終わりの始まりであったとも、今だから言えると思う。


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