「死にてえなら、せめて一人で死ね」
試合後の帰りのバス。重い沈黙の中、隣に座る三浦信二が、ぽつりと呟いた。
「……は?」
「そんな顔してるくらいなら、いっそ一人で死ねって言ってるんだ」
一瞬、冗談かと思った。いつものように照れ隠しで毒を吐いてるのだと。でも、信二の目には温度がなかった。
中学から四年間。バッテリーとして、勝って、負けて、喧嘩して、それでも並んできた相棒。その彼が、こんな目で俺を見るのは初めてだった。
今日の甲子園予選決勝。第二甲府高校対甲斐学院。
全国でも名のある強豪を相手にして、調子は悪くなかった。肩も軽かったし、気持ちもポジティブだった……と、思っていた。
中学と違う、経験したことのない重圧。
思考は冷静であったと思っていたが、指先の感覚があったのだろうか。投げても投げても、調子は上がらず、むしろ水を吸い上げた服のように重くなっていく身体。必死になるほど、その重みは増していき、気が付いたら、修正できぬまま、力任せで投げていた。
「……一年ながら、よく投げた。数字も悪くないって言われただろ? でもな、その顔は、マジでうぜえよ」
信二がちらと俺を見て、吐き捨てるように言う。
「一年のくせに、思い上がりすぎだわ」
バスの奥からすすり泣く声が聞こえる。
三年の先輩たちの嗚咽。最後の夏が終わった音だった。
俺はそれを聴きながら、ただ、黙っていた。
向き合えなかった。
試合中も、試合後も、自分の投球のことばかりを反芻していた。それが、信二には許せなかったのだろう。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥がずしりと沈んだ。
「……ごめん」
ようやく絞り出せたのは、その一言だけだった。いや、それ以上の言葉なんて思いつかなかった。
すると信二は、ため息をついて肩をすくめる。さっきまでの冷たい目が、少しだけ和らいでいた。
「……まあ、まだまだ、やることはあるだろ。けど、それは“やれることがある”ってことだ。伸びしろだよ」
言いながら、信二は窓の外を見た。夕暮れが、街をオレンジ色に染めていた。
「それに……七回のあの打席。よく打ったな、金丸さんのインロー。あれだけは褒めてやるよ」
頭の中が、動画みたいに再生される。
〇対三。七回、ツーアウト三塁での俺の打席。
それまで金丸さんの投球に完全に封じ込められて、バットにまともに当てることすらできなかった。調子の悪さだけじゃない。中学時代の紅白戦で植え付けられた苦手意識が、じわじわと胸を締めつけていた。
「あぁ……。あれな」
「あの場面。俺は大気に代打が出ると思ったわ」
「うっせぇな。でも……あの時は、あれだ」
「あれ?」
「……あー、”あれ”だよ」
「なんだよ”あれ”って」
「……応援歌、」
「はぁ?!」
このままじゃ、やばい 。
そう思った瞬間、何故かトランペットの音に意識が向いた。
初めての経験だったと思う。打席で音に反応するなんて。
でも、応援席から吹き抜ける音色が、妙に心に馴染んだ。
張り詰めていたものが、ふっとほどける。
呼吸が深くなり、バットを持つ指先に感覚が戻る。
「あぁ。ランナー三塁の場面なら、普通はあのチャンステーマだろ?」
「あー、あの無限ループみたいなやつ」
「だろ? でも、あの時だけは俺の応援歌だったんだよ」
「マジかよ……全然気づかなかったわ」
「しかも、あのトランペット……なんか、いつもより、音が違ったんだよな……」
信二は一瞬、目を見開く。
それから、ふっと笑った。
「おめー……試合中にそんなこと考えてたのかよ……」
「いや、たまたまだわ! でも、悪い感じしなかったんだよ。なんつーか、空気が合ったっていうかさ」
「空気ねぇ……気色悪っ」
「マジで言ってんだよ! でも、ほんと助かったわ。吹部には感謝だな」
「ペットねぇ……。あー、そういや今日のソロ、千紗がやるって言ってたわ」
「誰それ?」
「俺と同じクラス。橘千紗」
「知らねーよ。てかさ、ソロって普通三年がやんじゃねえの? 二年が吹いてたのかよ」
「知らねーよ! 吹部事情なんか、わかるか。まあ、千紗は部活命で、楽器も上手いらしいよ」
「ふーん……」
すると信二は、スマホをポケットから引っ張り出す。何枚かスワイプして、画面を突き出してきた。
「大気が応援歌変えない限り、来年も世話になるだろ? 顔くらい覚えとけよ。今度紹介してやるわ。ほら、学園祭の写真。これ」
「……ったく、そういうのはめんどくせぇんだよ……」
言いかけた瞬間、息が止まった。
スマホの小さな画面に映る、一人の少女。
吹奏楽部のステージ衣装。
高く結んだ髪。
きらきらと光る汗。
そして、眩しすぎるくらいの笑顔。
その笑顔を見た瞬間、心臓が暴れた。
ズキュン、じゃなくて、本当に「ドンッ」と鳴った。
今まで野球しかなかった胸の真ん中に、いきなりストレートがぶち込まれたみたいだった。
目が離せなかった。
見てるだけで、息が苦しくなる。
熱い。顔どころか、指先まで火がついたみたいに熱い。
視界が狭くなる。耳がキーンとする。
鼓動がうるさくて、自分の呼吸すら聞こえない。
俺の見ている世界が、何か決定的に変わった。
「……おい?」
信二の声が、遠くから聞こえる。
「あ……」
なんとなくしか返事ができない。口が動かない。
ただ、写真を見つめていた。
「おまえ、まさか……」
「あ……いや……」
「は? おまえ……マジで?」
「ち、ちげーし!!」
思わず叫ぶ。
でも声は裏返って、情けないほど震えていた。
信二が笑い出す。
その声が、妙に優しく響いた。
「……負けた直後に恋って、おめーらしいわ……」
「うるせぇ!!!!」
顔が熱くて、どうしようもなくて、思わず窓の外に顔を向ける。
試合の疲労感は残っている。
まだまだ課題だって山積みだ。
そして何より、三年生の先輩方への罪悪感だって、無くなった訳ではない。
でも、目の奥にはあの笑顔が焼きついて、離れない。
橘千紗先輩。
名前なんて、今初めて知ったのに。
鼓動が速すぎて、ちゃんと呼吸ができない。
でも、それが気持ちいい。
苦しいのに、笑い出したくなる。
泣きそうなくらい、嬉しい。
夕焼けに染まった街が、やけに綺麗に見えた。
試合に負けて、夏が終わったはずなのに。
でも今、俺の中では別の夏が、確かに始まった。
そして、終わりの始まりであったとも、今だから言えると思う。