二〇一七年七月一日。
朱雀祭、二日目の朝。
校舎は、昨日よりもさらに熱を帯びた空気で満ちていた。
模擬店の準備をしていると、はじめが誇らしげに大声を上げた。
「なあ、聞いてくれよ! 昨日、朱雀祭マジック、決めたんだぜ!」
「お前、本当にやったのかよ……」
りんと俺が、呆れたような声で返す。
「まあ、どうせすぐ別れるさ。去年も五人、見たからな」
「りんが言うと妙に説得力あるよな」
冗談めいたやり取りに、笑い声が広がる。
学園祭特有の浮ついた空気。
誰もが、少しだけいつもより自分に期待し、他人に優しくなれる不思議な日。
俺にも昨日、別のクラスの女子が「バンド交換しようよ!」なんて声をかけてくれた。
けれど、断った。全部。
正直に言えば、少しは嬉しかった。
でも、それ以上の何かを望む気持ちは、どこにもなかった。
恋よりも、ただこうして皆と笑っている日常が、何より楽しい。
もともと俺は、そういう人間だった。
忘れかけていた、静かな自分をふと思い出す。
そして、その時だった。
「千紗先輩! こっちです!」
その声に、心臓が跳ねた。
教室の入口に立っていたのは、橘千紗先輩だった。
隣には、雪。
そうか。そう言えば、雪の直属の先輩が、千紗先輩だったな。
反射的に、俺の足は教室の隅へと向かっていた。
息を潜めるように、その姿をそっと隠す。
「はじめまして! はじめって言います!」
「俺はりんです!」
二人の声が明るく響く。
千紗先輩は少し驚いたように目を細め、すぐに柔らかな笑みを返していた。
その笑顔は、変わらない。
けれど、それが今はもう、自分には向けられることのないものだと思うと、ただ、胸がきしんだ。
近づけない。声もかけられない。
笑い声のなか、俺は静かにバックヤードのカーテンをくぐった。
暗がりのなかで、祭の喧騒が遠のいていく。
代わりに、胸の奥で微かに疼くものがあった。
それは、悲しみというより、悔しさに近い何かだった。