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二〇一七年八月二十六日 その2

「さっきの、恥ずかしかったね」

 千沙先輩は隣で笑っている。

 俺はなんとなく、まだ中二病が完治していないんじゃないかと思い、心配になった。

「ですが、スペシャルプレゼント、微妙じゃないですか?」

「そうかな?」

 アヒルを倒した後、お兄さんは不機嫌そうに「この中から好きな物を一つ選びな」と言いながら、スペシャルプレゼントの箱を差し出してきた。

 その中身は明らかに子ども向けの玩具ばかりで、正直、少しがっかりした。

「けど、本当にそれで良かったんですか?」

「うん!」

 先輩が選んだのは、ハート型のストーンがついたピンク色の指輪だった。

 宝石は薄いピンク色で、確かに子どもっぽかったが、千沙先輩は嬉しそうにその指輪を手に取った。

 その笑顔を見て、俺はホッとした。彼女が喜んでくれたなら、それでいいやと思う。

 その後、俺たちは食べ物を買って花火会場に向かった。

「もうすぐですね」

「うん」

 周りの喧騒が耳に入っていたが、俺は目の前の先輩に夢中だった。だからこそ、遅れて訪れた違和感に、ようやく気づいたのかもしれない。

「あれ? 今日、何か泣かれました?」

 千沙先輩は驚いた様子で、手で目を隠した。

「え、え、何でいきなり?」

 その戸惑い方だけで、もう、何があったのか察してしまう。

 俺は言葉を飲み込み、ただそっと、先輩の沈黙を待った。

 やがて、観念したように、千沙先輩はぽつりぽつりと、最近あった出来事を語り始めた。





 今日の部活動には、三年生の何人かが顔を見せなかった。

 表向きの理由は塾ということになっていたが、あの日の出来事が尾を引いていることは、部員の誰もがうすうす察していた。

 その気まずさは目に見えない霧のように、じわじわと部全体に広がり、一年生も二年生も、その重苦しい沈黙の中に巻き込まれていった。

 けれど、その中にも一筋の光があった。

 瑞希のまっすぐな言葉に心を動かされた者たちが、少なからずいたのだ。

 瑠璃を筆頭に、何人かは動き始めていた。

見えない鎖を断ち切るように、静かな決意をもって、停滞した空気に風穴を開けようとしていた。

 それでもなお、心の奥底に残る不安は、ぬぐいきれなかった。

 このまま、いくつもの音が欠けたまま、西関東大会に出場するなんて――そんなの、絶対に嫌だ。

 胸の奥でその思いが幾重にも渦を巻き、どうしようもなく自分を追い詰めていた。

 本音を言えば、この時、誰かにすがりたかった。

 けれど、大気君には、素直に頼ることができなかった。

 あのノートに綴られていた記憶の断片を思い出すたび、言葉が喉元でつかえてしまうのだ。

 大気君は、今や輿水大気として、完璧に振る舞っている。

 だが、それがいつまで続くのか……。ふとした瞬間に、その不安がよぎる。

 私と過ごす時間が増えたことで、工藤光としての記憶が遠ざかり、代わりに大気という名を、自分自身の核として取り戻しつつあるのだろう。

 きっと、それは私の存在がもたらした副作用のようなものだ。

 けれど、それで本当に良いのだろうか。

 私は楽しい。今の大気君といる時間は、かけがえのない幸せに満ちている。

 だけど、彼自身――工藤光という人間にとっては、それは皮肉な運命のようにも思えてしまう。

 自ら命を絶ったことに対する罰。そんなふうに、受け止められてしまうのではないか。

 どうしようもなく、複雑な気持ちが胸を占めていく。

 だからこそ、せめて――せめて大気君といる時間だけは、明るく、楽しく、心からのものにしたいと思った。

 今日の部活でも、私はまた、こらえきれずに涙を流してしまった。

 けれど、それを誰にも悟られないように、心に仮面をかぶって、せめて今夜くらいはお祭りの明るさに身をゆだねようと決めていた。

 それでも、やはり大気君は大気君だった。

 私のそんな無理な笑顔を、大気君はすぐに見抜いて、黙って隣に寄り添ってくれた。

 その優しさに、胸が温かくなる一方で、私はやはり思ってしまう。

 彼は――工藤光ではなく、輿水大気なのだ、と。

「俺が思うには、まだ可能性はあると思います」

 静かな一言だった。けれど、その言葉には不思議な力があった。私は自然と、耳を傾けていた。

「正直、俺だってぶつかることはありますよ。昨日なんて、矢部と大喧嘩しましたから(笑)。あいつ、いやいや投手をやっているから、ずっと拗ねているんです。でも、東さんも引退したし、そろそろ本気でやろうぜって伝えました」

 大気君は、笑いながらもまなざしを真剣に保ったまま話し始めた。

「そしたら、案の定ぶちギレました。『お前に俺の気持ちが分かるか』って。まあ、それも一理あります。もともと守備が得意で、外野手が本職だった。でも、チーム事情で無理やりポジション変えられて……それでも、腹くくってやろうとしてたところに、俺が転校して来て……ピッチャーの座、奪っちゃったんですよね」

 そう言って、大気君は苦笑した。けれど、その表情の奥には、ちゃんとした痛みと、相手への理解があった。

「矢部、ずっと我慢してたみたいです。俺が死んだ……つまり大気の代わりに、夏を戦うっていう、大義名分もあったし。でも、それが終わった今、ふと思っちゃったんでしょうね。『なんで俺はピッチャーをやってるんだ?』って。そんな時に、転校生の俺が『しっかりやろうぜ』なんて言ったら、そりゃキレますよね」

 言葉が空気に染み込むようだった。私は無意識に、問いかけていた。

「それで…どうなったの?」

 大気君は、肩をすくめて、ふっと息を吐いた。

「簡単ですよ。監督のところに一緒に行って、三人で話しました。最初は矢部、すごい嫌がってました。でも俺が『一緒に行こう』って言ったら、しぶしぶだけど、ついて来てくれました。

 そしたら、監督も矢部の悩みに、全然気づいていなかったって謝りました。それで、これからの方向性を一緒に考えようとなり、矢部本人がどう思っているかは分からないけど、正直あいつ、めちゃくちゃいい球を持っています。それで、今後は投手と外野手の二刀流でやることになりました。冬のトレーニングで両方を磨く感じです。もちろん、一年生のピッチャーも育ってきていますけど、まだまだ経験が足りない。矢部には予備の投手をしつつ、本来好きだった外野手の道も探ってもらおうって話になりました! めでたしめでたし」

 大気君の話を聞きながら、「そういうものか」とぼんやり思う私。そのぽかんとした表情を見たのか、大気君はクスッと笑いながら補足した。

「ですから、千沙先輩たちだって大丈夫です。本音で話すことで、道が開けることもあります。要は、前に進む勇気です。それだけでいいんじゃないですか?」

 その言葉に、私は小さくうなずいた。

 前に進む勇気。

 それはきっと、今の私たちにとって、もっとも尊いもの。けれど同時に、一歩踏み出すたびに、何かを置いていかざるを得ないものでもある。

 夜空を切り裂くような音が轟き、闇のキャンバスに花火が咲いた。

 大気君はその音に誘われるように顔を上げ、遠くを見つめる。

 火の粉のように色とりどりの光が広がり、そして、はかなく消えていく。そのきらめきの儚さに、胸の奥がじんと熱くなる。

 大気君の横顔は、あたたかくもあり、どこか遠くへ行ってしまいそうな気配も帯びていた。

 今この瞬間、こうして大気君が隣にいてくれること。その奇跡に、私は何度でも感謝したくなる。

 どんなときも寄り添い、心の影にそっと灯をともしてくれる人。かけがえのない、大切な存在。

 ……けれど。

 どうしても、あの日見てしまった日記のことが頭をよぎる。

 おそらく、大気君は記憶を失ってしまう。避けられない未来だと、私は知ってしまった。

 似た事例も調べた。が、調べれば調べるほど、答えは冷たく明瞭だった。

 同じような事例は存在する。

 そして、例外なく、皆その「前世の記憶」を失っていた。

 つまり、いつか大気君は、私のことを――「いま」のすべてを、忘れてしまう。

 でも、だからこそ。

 私は、今という時間を、永遠よりも深く抱きしめたいと思った。

 何かを得るためには、何かを手放さなければならない。青春とは、そんな取り引きの連続だ。

 夢中になるあまり、気づかぬうちに多くの可能性を切り落としているかもしれない。

 私が吹奏楽に、大気君が野球にすべてを懸けることで、他の道を捨てていることもあるだろう。

 けれど、だからこそ後悔したくない。この瞬間の選択を、いつかの自分が誇れるようにしたい。

 瑞希の意見に賛成すること。それは、誰かを失望させることかもしれない。

 それでも、進んだ先でしか出会えない何かがあるはずだ。

 私は、やらずに悔やむより、やって悔やみたい。迷いながらでも、私は自分の足で選びたい。

「……花火、綺麗ですね」

 ふと、そんな言葉がこぼれた。

 あとどれくらい、一緒にいられるのかは分からない。

 けれど、限られた時間だからこそ、私は勇気を出して、この夏を……。いや、この一瞬を、命いっぱい楽しみたい。

 そして、大気君がこちらを振り向く、その瞬間を、私は静かに、待っていた。


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