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第35話 母の失態

 フードデリバリーのバイトは、夕方からの短い時間だけでも働くことにした。ただ、頭の中は水原の言葉でいっぱいだった。


 バイトを終え、アパートに戻ると、インターホンが鳴った。時計を見ると、22時を回っている。こんな時間に誰だ? 


「はい」


「あ、ヒロ」


 耳に届いたのは、リセの声だった。


「リセ? どうした、こんな時間に」


「ごめん。ちょっと話があって.」


 玄関を開けると、リセが立っていた。制服姿で、どこか緊張した面持ちだ。


「入れよ」


 部屋に入ったリセは、静かに座った。その表情には珍しく迷いの色が浮かんでいる。 「どうしたんだよ。何かあったのか?」 「ううん。というか、あるんだけど……」


 リセは少し言葉を選ぶように言った。


「その……ヒロのお母さんから、電話あったの」


「母さんから?」


「うん」


 俺は思わず眉をひそめた。母親からリセに電話? それは奇妙な話だ。


「何の用だ?」


「それが……」


 リセは言いづらそうに言葉を継ぐ。


「ヒロのお母さん、今、大変なことになってるみたいで。ヒロに連絡とりたいけど、番号知らなくて……」


「大変なことって?」


「お金のことで」


 リセの言葉に、嫌な予感がした。


 リセは申し訳なさそうに俯く。


「ヒロのお母さんって、ギャンブルやってたの?」


 俺は驚いて顔を上げた。あの母親がギャンブル? 子供の学歴にしか興味ない人だろ? 


「母さんがギャンブル? 初耳だぞ」


「そうなの? 電話では『投資と競馬で借金が』って言ってたよ」


 俺には想像もつかない話だった。知らない母親の姿がそこにあるのか……。


「どれくらいの額なんだ?」


「……2000万」


 俺は言葉を失った。2000万円? そんな途方もない金額を、どうやって。


「なんで俺に言わずにお前に」


「ヒロのお母さん、私の家の電話番号は覚えてたみたい……」


 リセは申し訳なさそうな表情で続けた。


「ヒロに言うべきか迷ったけど。でも、ヒロの親だし」


 俺はソファに深く身体を沈めた。


「母さんめ……」


 母親に見捨てられてから、会うことも話すことも避けてきた。それなのに、こんな形で再び関わることになるとは.


「どうする? 会う?」


「……ちょっと考えさせてくれ」


 俺は短く答えた。リセは黙って頷き、それ以上何も言わなかった。


 翌朝、俺が家を出ると、水原が待っていた。


「おはよー、川崎くん!」


「おう……」


 水原は俺の様子がいつもと違うことに気づいたのか、首を傾げた。


「どうしたの? なんか元気ないよ?」


「ああ、ちょっとな……」


 水原は心配そうに俺の顔を覗き込む。


「何かあった?」


「あー、なんつうか」


「あたしには言いづらいこと?」


「別にそうじゃねえけど、個人的なことだから」


「そっか」


 水原は少し寂しそうな表情を浮かべる。


 水原の事情は色々と聞いてるしな。


 俺のパーソナルな話を隠すのは違うか。


「母親が借金してるらしいんだ」


 水原は驚いたように瞳を見開いた。


「え?」


「2000万の借金を抱えてるって昨日聞かされた」


 水原は言葉を失ったように俺を見つめている。その目には驚きと心配の色が浮かんでいた。


「そ、そうなんだ」


 二人で黙ったまま歩き出す。しばらく沈黙が続いた後、水原が小さな声で言った。


「川崎くんのお母さん、どんな人?」 「え?」


「あ、ごめん。余計なこと聞いちゃった」


 水原は慌てて謝ったが、俺は首を振った。


「別にいい。母さんは──」


 俺は言葉を選びながら話した。母親が教育評論家として有名だったこと、俺の兄との極端な扱いの差、そして義務教育終了と同時に「もう出ていけ」と言われたこと。


 水原は真剣な表情で俺の話を聞いていた。


「そんなことがあったんだ……」


「ああ」


 学校に着くと、いつものようにリセが教室の前で待っていた。


「おはよう、ヒロ」


「あ、おはよう」


 リセは少し緊張した様子で俺を見つめる。昨日の話を持ち出すべきかどうか、迷っているようだった。


「お母さんのこと考えた?」


「まだ……」


 水原はその会話を聞きながら、俺とリセを交互に見ていた。


「川崎くん」


「なんだ?」


 水原は少し言いづらそうに口を開いた。


「放課後、時間ある?」


「ん、ああ」


「じゃあ、時間空けといてね」


「わかった」


 俺は不思議に思いながらも頷いた。


 授業中、俺の頭は借金のことでいっぱいだった。母親が2000万もの借金を作るなんて、あの厳格な母親がどうしてそんな……。


 放課後、約束通り水原と合流した。


 水原は少し緊張した様子で手を握りしめている。


「あのね。川崎くんのお母さんの借金のことだけど、あたし、肩代わりできるよ」


 俺は耳を疑った。


「は? 何言ってんだよ」


「だって川崎くんじゃ払いきれないでしょ?」


 水原は真剣な眼差しで言った。


「2000万円。あたしならすぐに用意できる」


 俺は困惑したまま、水原をじっと見た。


「お前、そんな大金……」


「あたしの家なら、そのくらいすぐに」


「断る」


 俺はきっぱりと言った。水原は驚いたように目を見開く。


「でも」


「お前の家の金で俺の母親の尻拭いをするなんて冗談じゃない」


「そうじゃなくて……」


 水原は少し躊躇った後、決意を固めたように言った。


「あたし、前にさ川崎くんの彼氏役に月100万払うって言ったよね」


「ああ。でもお金受け取るのは断っただろ」


「うん。でもやっぱりそうしようよ」


 俺は言葉を失った。


「あたしの彼氏になってくれる条件で、お母さんの借金返済する」


「いや、そんな……」


「毎月100万円として……20ヶ月」


 水原は真剣な表情で続けた。


「だからその間はリセちゃんじゃなく、あたしだけを見つめてほしい」


 俺は呆然としたまま、水原を見つめた。彼女の目には強い決意の色が浮かんでいる。


「そんな馬鹿な話.」


「馬鹿じゃない。あたし、本気だよ」


 水原は俺の手をぎゅっと握った。


 彼女は顔を上げ、真っ直ぐな眼差しで俺を見つめた。


「あたしの彼氏になってほしい。本物の」


 俺は深く息を吐いた。あまりにも突飛な提案に、頭がぐるぐると回る。


「考えさせてくれ」


「うん.でも」


 水原は少し俯き、小さな声で付け加えた。


「早い方がいいよ。借金の取り立ては、待ってくれないから.」


 その夜、俺はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。水原の提案が頭から離れない。


 ──リセちゃんじゃなく、あたしだけを見つめてほしい


 その言葉には、彼女の本音がこもっていた。


 しかし、リセのことを思うと胸が締め付けられる。長年の幼馴染で、いつも俺のことを気にかけてくれていた彼女。俺自身、リセのことをどう思っているのか.


 だが、母親の借金.2000万という途方もない額。かといって、母親を見捨てることもできない。どんな関係であれ、血は繋がっているのだから.


 それに、母がギャンブルに手を出していたという事実が、まだ頭の中で整理できていなかった。何故そんなことに……いったい何があったのか。こんな借金を作るなんて。

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