フードデリバリーのバイトは、夕方からの短い時間だけでも働くことにした。ただ、頭の中は水原の言葉でいっぱいだった。
バイトを終え、アパートに戻ると、インターホンが鳴った。時計を見ると、22時を回っている。こんな時間に誰だ?
「はい」
「あ、ヒロ」
耳に届いたのは、リセの声だった。
「リセ? どうした、こんな時間に」
「ごめん。ちょっと話があって.」
玄関を開けると、リセが立っていた。制服姿で、どこか緊張した面持ちだ。
「入れよ」
部屋に入ったリセは、静かに座った。その表情には珍しく迷いの色が浮かんでいる。 「どうしたんだよ。何かあったのか?」 「ううん。というか、あるんだけど……」
リセは少し言葉を選ぶように言った。
「その……ヒロのお母さんから、電話あったの」
「母さんから?」
「うん」
俺は思わず眉をひそめた。母親からリセに電話? それは奇妙な話だ。
「何の用だ?」
「それが……」
リセは言いづらそうに言葉を継ぐ。
「ヒロのお母さん、今、大変なことになってるみたいで。ヒロに連絡とりたいけど、番号知らなくて……」
「大変なことって?」
「お金のことで」
リセの言葉に、嫌な予感がした。
リセは申し訳なさそうに俯く。
「ヒロのお母さんって、ギャンブルやってたの?」
俺は驚いて顔を上げた。あの母親がギャンブル? 子供の学歴にしか興味ない人だろ?
「母さんがギャンブル? 初耳だぞ」
「そうなの? 電話では『投資と競馬で借金が』って言ってたよ」
俺には想像もつかない話だった。知らない母親の姿がそこにあるのか……。
「どれくらいの額なんだ?」
「……2000万」
俺は言葉を失った。2000万円? そんな途方もない金額を、どうやって。
「なんで俺に言わずにお前に」
「ヒロのお母さん、私の家の電話番号は覚えてたみたい……」
リセは申し訳なさそうな表情で続けた。
「ヒロに言うべきか迷ったけど。でも、ヒロの親だし」
俺はソファに深く身体を沈めた。
「母さんめ……」
母親に見捨てられてから、会うことも話すことも避けてきた。それなのに、こんな形で再び関わることになるとは.
「どうする? 会う?」
「……ちょっと考えさせてくれ」
俺は短く答えた。リセは黙って頷き、それ以上何も言わなかった。
翌朝、俺が家を出ると、水原が待っていた。
「おはよー、川崎くん!」
「おう……」
水原は俺の様子がいつもと違うことに気づいたのか、首を傾げた。
「どうしたの? なんか元気ないよ?」
「ああ、ちょっとな……」
水原は心配そうに俺の顔を覗き込む。
「何かあった?」
「あー、なんつうか」
「あたしには言いづらいこと?」
「別にそうじゃねえけど、個人的なことだから」
「そっか」
水原は少し寂しそうな表情を浮かべる。
水原の事情は色々と聞いてるしな。
俺のパーソナルな話を隠すのは違うか。
「母親が借金してるらしいんだ」
水原は驚いたように瞳を見開いた。
「え?」
「2000万の借金を抱えてるって昨日聞かされた」
水原は言葉を失ったように俺を見つめている。その目には驚きと心配の色が浮かんでいた。
「そ、そうなんだ」
二人で黙ったまま歩き出す。しばらく沈黙が続いた後、水原が小さな声で言った。
「川崎くんのお母さん、どんな人?」 「え?」
「あ、ごめん。余計なこと聞いちゃった」
水原は慌てて謝ったが、俺は首を振った。
「別にいい。母さんは──」
俺は言葉を選びながら話した。母親が教育評論家として有名だったこと、俺の兄との極端な扱いの差、そして義務教育終了と同時に「もう出ていけ」と言われたこと。
水原は真剣な表情で俺の話を聞いていた。
「そんなことがあったんだ……」
「ああ」
学校に着くと、いつものようにリセが教室の前で待っていた。
「おはよう、ヒロ」
「あ、おはよう」
リセは少し緊張した様子で俺を見つめる。昨日の話を持ち出すべきかどうか、迷っているようだった。
「お母さんのこと考えた?」
「まだ……」
水原はその会話を聞きながら、俺とリセを交互に見ていた。
「川崎くん」
「なんだ?」
水原は少し言いづらそうに口を開いた。
「放課後、時間ある?」
「ん、ああ」
「じゃあ、時間空けといてね」
「わかった」
俺は不思議に思いながらも頷いた。
授業中、俺の頭は借金のことでいっぱいだった。母親が2000万もの借金を作るなんて、あの厳格な母親がどうしてそんな……。
放課後、約束通り水原と合流した。
水原は少し緊張した様子で手を握りしめている。
「あのね。川崎くんのお母さんの借金のことだけど、あたし、肩代わりできるよ」
俺は耳を疑った。
「は? 何言ってんだよ」
「だって川崎くんじゃ払いきれないでしょ?」
水原は真剣な眼差しで言った。
「2000万円。あたしならすぐに用意できる」
俺は困惑したまま、水原をじっと見た。
「お前、そんな大金……」
「あたしの家なら、そのくらいすぐに」
「断る」
俺はきっぱりと言った。水原は驚いたように目を見開く。
「でも」
「お前の家の金で俺の母親の尻拭いをするなんて冗談じゃない」
「そうじゃなくて……」
水原は少し躊躇った後、決意を固めたように言った。
「あたし、前にさ川崎くんの彼氏役に月100万払うって言ったよね」
「ああ。でもお金受け取るのは断っただろ」
「うん。でもやっぱりそうしようよ」
俺は言葉を失った。
「あたしの彼氏になってくれる条件で、お母さんの借金返済する」
「いや、そんな……」
「毎月100万円として……20ヶ月」
水原は真剣な表情で続けた。
「だからその間はリセちゃんじゃなく、あたしだけを見つめてほしい」
俺は呆然としたまま、水原を見つめた。彼女の目には強い決意の色が浮かんでいる。
「そんな馬鹿な話.」
「馬鹿じゃない。あたし、本気だよ」
水原は俺の手をぎゅっと握った。
彼女は顔を上げ、真っ直ぐな眼差しで俺を見つめた。
「あたしの彼氏になってほしい。本物の」
俺は深く息を吐いた。あまりにも突飛な提案に、頭がぐるぐると回る。
「考えさせてくれ」
「うん.でも」
水原は少し俯き、小さな声で付け加えた。
「早い方がいいよ。借金の取り立ては、待ってくれないから.」
その夜、俺はベッドに横になったまま、天井を見つめていた。水原の提案が頭から離れない。
──リセちゃんじゃなく、あたしだけを見つめてほしい
その言葉には、彼女の本音がこもっていた。
しかし、リセのことを思うと胸が締め付けられる。長年の幼馴染で、いつも俺のことを気にかけてくれていた彼女。俺自身、リセのことをどう思っているのか.
だが、母親の借金.2000万という途方もない額。かといって、母親を見捨てることもできない。どんな関係であれ、血は繋がっているのだから.
それに、母がギャンブルに手を出していたという事実が、まだ頭の中で整理できていなかった。何故そんなことに……いったい何があったのか。こんな借金を作るなんて。