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第37話 初デート

 契約を交わしてから数日が経った週末、俺はいつもより少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋を淡い光で満たしている。


「ん……」


 眠い目をこすりながら時計を見ると、まだ7時だった。今日は水原と初めてのデートだ。正式な「本物の彼氏」として過ごす初日。考えただけで気が重くなる。


 スマホを手に取ると、既に水原からのメッセージが届いていた。


『おはよ☆今日のこと考えたら全然寝れなかった(笑) 10時に駅前で待ってるね!』


 メッセージの調子の明るさに、少し戸惑う。彼女にとっては、単なる金銭的な取引じゃないんだよな。


「はぁ」


 溜息をつきながらベッドから体を起こす。シャワーを浴びて、服を選びながら考える。水原と二人きりで過ごす一日。演技じゃない、本物の恋人として。


 駅前に着くと、水原は既に待っていた。薄いピンク色のワンピース姿で、髪も普段より丁寧に整えている。俺を見つけると、顔を輝かせて手を振った。


「川崎くん!」


 駆け寄ってくる水原。その表情には、隠しきれない喜びがあふれていた。


「おはよう」


「おはよ! 待った?」


「いや、今来たとこだ」


 水原は嬉しそうに微笑み、自然な流れで俺の腕に手を絡ませる。もう演技じゃないから拒む理由もない。それでも、少し緊張感が残る。


「さて、どこに行く?」


「えへへ、実はね」


 水原は小さなメモを取り出した。そこには、デートプランが几帳面に書かれている。


「まずは水族館に行って、それからランチして、午後は映画って、かなり詰め込んだスケジュールだな」


「だって、川崎くんと恋人になって初めてのデートだから!」


「お、おう。まぁいいけど、無理はすんなよ」


「うん! じゃあ、行こ!」


 駅に向かいながら、水原は楽しそうに話し続ける。学校の話、見たい映画の話、最近読んだ本の話……その明るさについていくのが少し大変だったが、彼女の純粋な喜びを見ていると、自然と俺の気持ちも軽くなっていくのを感じた。


 水族館に着くと、水原はさらに嬉しそうな表情になる。チケットを買って中に入ると、彼女は子どもみたいに目を輝かせた。


「わぁ! すごい!」


 大きな水槽を泳ぐ魚たちを見て、水原は無邪気に喜ぶ。その姿に、俺は少し驚いた。学校では時々飄々としたり、計算高いところを見せる彼女だが、今は純粋に楽しんでいるように見える。


「ねぇ川崎くん、これ見て! クラゲきれいだよ!」


 俺の手を引っ張る水原。暗い照明の中で光るクラゲたちは、確かに幻想的だった。


「お前、こういうの好きなんだな」


「うん。小さい頃から水族館大好きなんだ」


 水原の横顔を見つめていると、彼女が気づいて顔を向けた。


「どうしたの?」


「お前がそんなに楽しそうにしてるの、意外だなって」


「む。意外って失礼じゃないかな」


 水原は頬を膨らませるが、嬉しそうに笑った。


「そうだ、写真撮ろ?」


 そう言って、水原はスマホを取り出した。真っ青な大水槽の前で、水原が自撮りのポーズをとる。


「ほら川崎くんも一緒に!」


「え、俺はいい」


「いいから! 恋人同士なんだから、記念写真は大事でしょ」


 観念して、俺も彼女の横に並ぶ。水原はぴったりと身を寄せ、カメラに向かって満面の笑みを浮かべた。


「じゃ、撮るよ」


 シャッター音とともに、俺たちの最初のデート写真が撮られた。


 水族館を出ると、既に昼時だった。水原が選んだカフェでランチを取る。窓際の席で向かい合って座ると、妙に緊張する。


「ねぇ、川崎くん」


「ん?」


「今日、楽しい?」


 水原はちょっと不安そうな目で俺を見つめる。


「ああ、まぁ.悪くない」


「よかったっ」


 水原は安心したように微笑んだ。


「川崎くんとこうやって過ごせるなんて、夢みたい。ありがとう」


 その言葉に、俺は言葉に詰まった。契約のためだけにいるはずなのに、こんなに素直に喜ばれると、何を言えばいいのか.


「別にそんな気を使わなくていいぞ。契約したんだから」


「うん、でも契約だけじゃなくて、本当に嬉しいの」


 水原の目には真剣な光が宿っていた。


 食事を終え、映画館に向かう。水原が選んだのは人気のラブストーリー。正直、俺の好みではなかったが、彼女が楽しみにしているなら仕方ない。


 暗い映画館の中、主人公たちの恋愛模様が映し出される。俺が少し退屈し始めた頃、水原がそっと俺の手を握った。驚いて横を見ると、彼女はスクリーンに集中したまま、でも頬が少し赤くなっている。


 俺は握り返すべきか迷ったが、結局そのまま彼女の手を握った。水原は小さく微笑み、俺の手をギュッと握り返した。


 映画が終わると、外はもう夕暮れ時だった。


「あんな風に、想いを告げられるって素敵だよね」


 水原が映画の感想を言う。


「あんなのフィクションだからできることだろ」


「そうかな? 私は、好きな人には素直に気持ちを伝えるべきだと思うけど」


 水原はまっすぐに俺を見つめる。その目に嘘はなく、今度は俺が視線を逸らした。


「帰るか」


「うん」


 帰り道、二人は無言で歩く。駅に着く頃、水原が口を開いた。


「ねぇ、川崎くん」


「なんだ?」


「今日、本当に楽しかった。ありがとう」


 水原の笑顔は、夕日に照らされて優しく輝いていた。


「ああ。俺も、悪くなかったよ」


 水原の目が少し大きくなる。


「本当?」


「ああ」


 水原はちょっと照れくさそうに笑った。そして、ふと真剣な表情になる。


「最後に一つだけお願いしていい?」


「なんだよ」


「目を閉じて」


「は?」


「いいから」


 不思議に思いながらも、俺は目を閉じた。すると、唇に柔らかい感触。水原が頬にキスをしたのだ。


 目を開けると、水原は真っ赤な顔で俺を見上げていた。


「また明日ね」


 そう言って、水原は急いで駅の改札に向かった。俺は頬に残る柔らかい感触に、妙な温かさを感じながら彼女の背中を見送った。

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