それから二週間が過ぎた。俺と水原の関係は徐々に変わっていった。最初は気まずかったデートも、次第に自然体で過ごせるようになっていた。学校でも、もう演技ではない「本物の恋人」として振る舞うことに、不自然さはなくなっていた。
一方、リセとの距離は微妙に広がっていた。三人で過ごすことも減り、リセは自分から距離を置いているようだった。それが胸に引っかかりながらも、契約通り、俺は水原だけを見つめることを選んでいた。
そんなある日の放課後、俺のスマホが鳴った。
「もしもし?」
「ヒロ」
その声に、俺は思わず息を飲んだ。
「母さん?」
「そう。久しぶりね」
電話の向こうから聞こえる、かすれた母親の声。数年ぶりに聞く声だった。
「なんで俺の電話番号……」
「リセちゃんから聞いたの」
「そうかよ。で、何の用だ」
俺の声は思った以上に冷たかった。しかし、母親は淡々と話し始めた。
「あなたが私の借金を返済してくれたって聞いたわ。お礼を言いたくて」
「別に俺じゃない。友達がしてくれただけだ」
「そう。でも、あなたが頼んでくれたんでしょう? 感謝してるわ」
母親の声には、罪悪感と謝罪の色が混じっていた。俺が黙っていると、母親は続けた。
「一度会えないかしら。話したいことがあるの」
「何を今さら」
「お願い。たった一度でいいから」
俺は迷った。会いたくない気持ちが強かったが、ずっと疑問に思っていたこともある。あの厳格な母親がなぜギャンブルに手を出したのか。
「わかった。いつがいい?」
「今週の土曜日、午後2時。ウチの近くのカフェで待ってるわ」
電話を切った後、俺は深く息を吐いた。
その夜、俺は水原に電話した。母親との再会のこと、話しておいた方がいいと思ったからだ。
「え、お母さんに会うの?」
水原の声には驚きが混じっていた。
「ああ。土曜日に」
「そっか」
「もし良かったら一緒に行こうか?」
その提案に、俺は少し考えた。
「いや、今回は一人で行くよ。母さんと話したいこともあるし」
「わかった。でも何かあったらすぐ連絡してね」
「ああ、ありがとう」
電話を切った後、俺はベッドに横になりながら考えた。母親との再会。そして水原との関係。数週間前までは想像もしなかった状況だ。
土曜日がやってきた。俺は少し緊張しながら、約束のカフェに向かった。
カフェに入ると、すぐに母親の姿が目に入った。窓際の席で、コーヒーを前に静かに座っている。以前よりも少し痩せたような気がする。
「久しぶり、ヒロ」
俺が近づくと、母親は小さく微笑んだ。その表情には、かつての厳しさはなく、どこか疲れたように見えた。
「座って」
俺は無言で向かいの席に座った。沈黙が流れる。
「.立派になったわね」
母親が先に口を開いた。
「は? 何いい出してんだ」
「いいえ、本当よ。一人で生きていけるなんて.私よりもずっと強いわ」
「勝手に追い出しておいてよくいうぜ」
母親は一度沈黙すると、コーヒーを一口含んでから。
「あの、借金のことだけど」
「ああ、その話か」
「ごめんなさい。本当に恥ずかしいことをしてしまったわ」
母親は深く頭を下げた。
「なんで、ギャンブルなんか.」
母親は視線を落とし、両手でコーヒーカップを握りしめた。
「最初はただの気晴らしだったの」
母親の声は小さく、震えていた。
「仕事の疲れを紛らわせるために、知り合いに誘われて競馬場に行ったのが始まりだったわ」
俺は黙って母親の話を聞いた。
「最初は少額だったの。でも、一度大きく勝ってしまったの。あの時の高揚感が忘れられなくて.」
母親は苦い表情で続ける。
「気づいたら、毎週のように通うようになって。勝つときもあれば負けるときもあって、でも、負けたときの方が多くなって」
「それで2000万も」
「ええ……それで投資にも手を出し始めて、でもうまくいかなくて。段々追い詰められて、カードローンを組んで」
母親は深くため息をついた。
「そのうち教育評論家としての信用も落ちて、講演の依頼も減って悪循環だったわ」
「なんで誰かに相談しなかったんだ?」
「恥ずかしかったのよ。それに、お兄ちゃんにも迷惑をかけたくなかった。あの子は自分の道を歩んでいるから」
母親は俯いたまま、小さな声で続けた。
「それにあなたを追い出してしまった後、どう連絡していいか分からなくて」
「……」
「本当にごめんなさい。あなたに冷たくしたこと、お兄ちゃんと比較したこと、そして最後には家から追い出してしまったこと全部、本当に申し訳なかったわ」
母親の目から涙がこぼれ落ちる。
「兄貴と比べられて育った俺の気持ち、少しは分かってるのか?」
俺の言葉は冷たかったが、母親は顔を上げて俺を見つめた。
「分かるとは言えないわ。でも、今なら少しは理解できるかもしれない。あなたの痛みを、全部は理解できないけど」
母親は深く息を吐き、続ける。
「私は完璧な母親ではなかった。むしろ最低だったわ。でもあなたが私の借金を返済してくれたって聞いて、もう一度だけチャンスをもらえないかと思ったの」
「チャンス?」
「もう一度、あなたと母子として関係を築き直すチャンス」
俺は言葉を失った。母親にそんな気持ちがあるとは思ってもみなかった。
「今すぐじゃなくていいの。ゆっくりでいいからたまには連絡を取り合えるくらいになれたら」
母親の声には、かすかな希望が混じっていた。
「少し考えさせてくれ」
「ええ、もちろん」
母親は小さく微笑んだ。その表情には、昔のような威圧感はなく、ただ疲れと後悔と、かすかな希望が見えた。
「あなたの彼女さんのことも聞いたわ。水原さんっていう子?」
「え?」
「リセちゃんから聞いたの。優しい子なんでしょう?」
「ああまあな」
「いつか、会わせてほしいわ」
「考えておく」
カフェを出ると、既に夕方だった。母親とは連絡先を交換して別れた。すぐに関係が元通りになるわけではないが、少なくとも会話の糸口はできた気がする。