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第38話 母親との邂逅

 それから二週間が過ぎた。俺と水原の関係は徐々に変わっていった。最初は気まずかったデートも、次第に自然体で過ごせるようになっていた。学校でも、もう演技ではない「本物の恋人」として振る舞うことに、不自然さはなくなっていた。


 一方、リセとの距離は微妙に広がっていた。三人で過ごすことも減り、リセは自分から距離を置いているようだった。それが胸に引っかかりながらも、契約通り、俺は水原だけを見つめることを選んでいた。


 そんなある日の放課後、俺のスマホが鳴った。


「もしもし?」


「ヒロ」


 その声に、俺は思わず息を飲んだ。


「母さん?」


「そう。久しぶりね」


 電話の向こうから聞こえる、かすれた母親の声。数年ぶりに聞く声だった。


「なんで俺の電話番号……」


「リセちゃんから聞いたの」


「そうかよ。で、何の用だ」


 俺の声は思った以上に冷たかった。しかし、母親は淡々と話し始めた。


「あなたが私の借金を返済してくれたって聞いたわ。お礼を言いたくて」


「別に俺じゃない。友達がしてくれただけだ」


「そう。でも、あなたが頼んでくれたんでしょう? 感謝してるわ」


 母親の声には、罪悪感と謝罪の色が混じっていた。俺が黙っていると、母親は続けた。


「一度会えないかしら。話したいことがあるの」


「何を今さら」


「お願い。たった一度でいいから」


 俺は迷った。会いたくない気持ちが強かったが、ずっと疑問に思っていたこともある。あの厳格な母親がなぜギャンブルに手を出したのか。


「わかった。いつがいい?」


「今週の土曜日、午後2時。ウチの近くのカフェで待ってるわ」


 電話を切った後、俺は深く息を吐いた。


 その夜、俺は水原に電話した。母親との再会のこと、話しておいた方がいいと思ったからだ。


「え、お母さんに会うの?」


 水原の声には驚きが混じっていた。


「ああ。土曜日に」


「そっか」


「もし良かったら一緒に行こうか?」


 その提案に、俺は少し考えた。


「いや、今回は一人で行くよ。母さんと話したいこともあるし」


「わかった。でも何かあったらすぐ連絡してね」


「ああ、ありがとう」


 電話を切った後、俺はベッドに横になりながら考えた。母親との再会。そして水原との関係。数週間前までは想像もしなかった状況だ。


 土曜日がやってきた。俺は少し緊張しながら、約束のカフェに向かった。


 カフェに入ると、すぐに母親の姿が目に入った。窓際の席で、コーヒーを前に静かに座っている。以前よりも少し痩せたような気がする。


「久しぶり、ヒロ」


 俺が近づくと、母親は小さく微笑んだ。その表情には、かつての厳しさはなく、どこか疲れたように見えた。


「座って」


 俺は無言で向かいの席に座った。沈黙が流れる。


「.立派になったわね」


 母親が先に口を開いた。


「は? 何いい出してんだ」


「いいえ、本当よ。一人で生きていけるなんて.私よりもずっと強いわ」


「勝手に追い出しておいてよくいうぜ」


 母親は一度沈黙すると、コーヒーを一口含んでから。


「あの、借金のことだけど」


「ああ、その話か」


「ごめんなさい。本当に恥ずかしいことをしてしまったわ」


 母親は深く頭を下げた。


「なんで、ギャンブルなんか.」


 母親は視線を落とし、両手でコーヒーカップを握りしめた。


「最初はただの気晴らしだったの」


 母親の声は小さく、震えていた。


「仕事の疲れを紛らわせるために、知り合いに誘われて競馬場に行ったのが始まりだったわ」


 俺は黙って母親の話を聞いた。


「最初は少額だったの。でも、一度大きく勝ってしまったの。あの時の高揚感が忘れられなくて.」


 母親は苦い表情で続ける。


「気づいたら、毎週のように通うようになって。勝つときもあれば負けるときもあって、でも、負けたときの方が多くなって」


「それで2000万も」


「ええ……それで投資にも手を出し始めて、でもうまくいかなくて。段々追い詰められて、カードローンを組んで」


 母親は深くため息をついた。


「そのうち教育評論家としての信用も落ちて、講演の依頼も減って悪循環だったわ」


「なんで誰かに相談しなかったんだ?」


「恥ずかしかったのよ。それに、お兄ちゃんにも迷惑をかけたくなかった。あの子は自分の道を歩んでいるから」


 母親は俯いたまま、小さな声で続けた。


「それにあなたを追い出してしまった後、どう連絡していいか分からなくて」


「……」


「本当にごめんなさい。あなたに冷たくしたこと、お兄ちゃんと比較したこと、そして最後には家から追い出してしまったこと全部、本当に申し訳なかったわ」


 母親の目から涙がこぼれ落ちる。


「兄貴と比べられて育った俺の気持ち、少しは分かってるのか?」


 俺の言葉は冷たかったが、母親は顔を上げて俺を見つめた。


「分かるとは言えないわ。でも、今なら少しは理解できるかもしれない。あなたの痛みを、全部は理解できないけど」


 母親は深く息を吐き、続ける。


「私は完璧な母親ではなかった。むしろ最低だったわ。でもあなたが私の借金を返済してくれたって聞いて、もう一度だけチャンスをもらえないかと思ったの」


「チャンス?」


「もう一度、あなたと母子として関係を築き直すチャンス」


 俺は言葉を失った。母親にそんな気持ちがあるとは思ってもみなかった。


「今すぐじゃなくていいの。ゆっくりでいいからたまには連絡を取り合えるくらいになれたら」


 母親の声には、かすかな希望が混じっていた。


「少し考えさせてくれ」


「ええ、もちろん」


 母親は小さく微笑んだ。その表情には、昔のような威圧感はなく、ただ疲れと後悔と、かすかな希望が見えた。


「あなたの彼女さんのことも聞いたわ。水原さんっていう子?」


「え?」


「リセちゃんから聞いたの。優しい子なんでしょう?」


「ああまあな」


「いつか、会わせてほしいわ」


「考えておく」


 カフェを出ると、既に夕方だった。母親とは連絡先を交換して別れた。すぐに関係が元通りになるわけではないが、少なくとも会話の糸口はできた気がする。

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